手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

海外移住

海外移住

 

 私には7つ上の兄がいます。私と違って真面目で出来のいい人で、明治大学に入って、その後三菱系の会社に入り、最終的には支社長になった人です。時々会って話をしますが、地味で大人しい人で、およそ自慢話をしない人ですが、一度だけ、「今の俺の収入は、県知事より高い」。と言ったのを覚えています。

 県知事よりも高給なら2000万円越えでしょう。サラリーマンとしては、大出世です。私とは7歳も離れていましたから、これまで会って話をすることもめったにありませんでした。

 あるときに、はた、と昔のことを思い出しました。「そういえば、兄貴が高校生の頃、大学に入って卒業したら、メキシコに移住したいって言っていたよねぇ。あれはどうしてそう思ったの?」。

 兄はしばらく考えて、「親戚でメキシコに行って成功していた人がいたんだ。その人を頼って行ったら、いい生活が出来るんじゃないかと思ったんだ」。この話は昭和39年のことです。私はまだ10歳でした。東京オリンピックが開催された年でしたが、まだまだ日本は貧し時代でした。

 「今の自分と比べた時、あの時メキシコに行っていたら、どっちが幸せだっただろう」。と尋ねると、「時代が違うよ。あの頃は日本国内には魅力ある仕事がなくて、給料も安かったから、アメリカや中南米に行きたい人はたくさんいたんだ。当時は日本もメキシコもブラジルもあまり所得に違いはなかったんじゃないかと思う。でもその後の日本の成長は他の国と比べようがないほど大きくなったよ。まぁ、日本に残ったことは成功だよ」。

 

 兄のような、地味な人でさえ、昭和30年代は海外に出て一旗揚げてやろうと考えていたのです。ところで私は、昭和50年代になってから、毎年マジックの活動で海外に出ることが多くなりました。

 別段私が海外で生活がしたかったわけではありません。初めは海外のコンベンションに対する興味から始まったのです。ただ、コンベンションなどに出ると、私は着物を着て手妻を演じるため、コンベンション主催者が、彩として使いたいらしく、次から次と依頼が来たのです。又レクチュアーも、当時、アメリカのレクチュアー指導家は、クロースアップが多く、ステージ物のレクチュアーが珍しかったのです。

 特に、アメリカではシルクの価格が高く、みんなシルクのハンカチを持っていないのです。そのため、シルクの結び解きすらも出来ない人がほとんどで、フォールスノット(ニセ結び)を使ったシルクマジックを3種類も教えると、大喜びで、シルクを争うように買ってくれたのです。アメリカが日本より進んだ国だと思っていた私にとってはそれが驚きでした。私程度のマジシャンで十分尊敬され、仕事として成り立ったのです。

 

 私は、毎年アメリカに行き、2か月も3か月も活動するようになったのです。20代の私の活動は、コンベンションに出演をする。コンベンションに行く途中にアメリカの近隣の都市を回ってレクチャーをして収入をつくる。マジックキャッスルに一週間出演する。その間に、飛び込みのイベントがあればショウをする。そんなことで2か月生活していました。

 この活動はアメリカに出掛ける度にまとまった収入を残すことが出来て、私にとっては満足の行くものでした。然し、3年も続けると、ここから先がないことに気付きました。

 コンベンションのゲストに出演し続けていると、そのうち、ラスベガスのショウから依頼が来るかと言えばそれはあり得ないのです。コンベンションはアマチュアの世界です。そこでいくら認められてもそれはアマチュアの中の評価なのです。

 そうなら、アメリカのショウビジネスのチャンスをつかむにはどうしたらいいかと考えてみても、マジシャンを扱ってくれる芸能事務所と言うものがアメリカにはないのです。

 芸能事務所はありますが、ビッグタレントだけを相手にしています。一回10万円20万円などと言うタレントは相手にされないのです。アメリカは土地が広いため、10万20万などと言うギャラでは交通費で消えてしまいます。そんな僅かな収入からマージンを求める事務所などないのです。

 結局コンベンションに出ている限りコンベンションの仕事しか手に入りません。たまに飛び込みのイベントはあります。仮に一回100万円イベントならいい仕事です。然し、一年で一本しかなければ年収100万円です。アメリカでは仕事から仕事につながりにくいのです。私は、指導や教材の販売で収入を上げていました。然し、ある時、これが人生を大きく狂わせる元だと気付きました。

 無論、指導も販売も立派な仕事ですから、それを続けることはいいことです。ところが、アメリカの地方クラブで指導をするようになると、頭の中は、如何にしたらアマチュアが喜ぶ作品を作れるか。そればかり考えるようになります。いつしか、優れたマジックを考えるのではなく、アマチュアが簡単にできて、覚えやすいマジックを考えるようになります。

 つまり思考が変化して行きます。そうなると、自分の手順、自分のマジックをどう進めて行っていいのかが見えなくなって行きます。進む道が見つからないから、アマチュアを相手にする。アマチュア受けのアイディアばかり考える。道は遠のいて行きます。

 ある時、私はロサンゼルスに向かう飛行機の中で、ふと、自分がひたすらアマチュア受けするマジックを考えていることに気付きました。その時自分の人生の間違いを知りました。そうした作品を教えたり販売したりして、めでたく売れたとしても、自身が目指そうとしているマジシャンにはなれません。どこかで道を間違えているのです。

 金を稼ぐから成功なのではありません。自分がやりたいことの道の上にちゃんと乗って生きているかどうかが大事なのです。そこに気付いて、翌年から私はアメリカに行くことをやめました。欧米を追い求めるのではなく、日本でショウ活動をしようと思いました。

 日本に居れば私の芸能を売ってくれる事務所がたくさんありますし、仕事場もたくさんありました。なにもアメリカに行って、ショウ以外のことをして生きて行く必要はないのです。ショウをする限り日本の方がアメリカよりも暮らしやすかったのです。つまり、私はアメリカに永住して生きて行こうなどとは考えもしませんでした。

 「まずしっかり日本で、ショウをして稼ごう、ショウで実績を残そう」。と目的を定めました。20代でアメリカ中をショウをしたりレクチュアーして回ったならかっこいいですよね。今では素晴らしい思い出です。でも、日本にとどまり、ステージを続けてきたことが、結果として正解でした。行く道々に危険のサインは何度か出て来ます。その都度見誤らないことです。

続く