手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 1

アーノルドファーストさんのこと

マギー司郎さん

 長くこの世界にいると、お付き合いする人も長い友人がたくさんいます。そのなかでも最も長い友人で一番大切な人は、マギー司郎さんです。私が17歳で名古屋の大須演芸場に出ていた時に、お客様として演芸場に来てくれました。私がブルーのスーツを着てロープ切りとリングを演じていた時のことを今でもマギーさんは語ります。それ以来の付き合いで、かれこれ50年近くの仲間です。

 マギーさんはその頃はジミー司と言って、一人でスライハンドマジックをしていました。前半ステッキの消失などをして、そのあと四つ玉を演じていました。多くのアマチュアさんの中にはマギー司郎はマジックが出来ないと思っている人がありますが、どうして、彼は高木重朗先生から指導を受け、その後、マギー信沢さんに弟子入りしてスライハンドはかなり上手でした。

 但し、彼の面白さは、スライハンドの後のお喋りに本文があり、あの、独特の語り口は、45年前も今もほとんど変っていません。今でも時々会って一杯やっています。

 

ボナ植木さん

 次はボナ植木さんです。大学を出たあたりからの付き合いですから、かれこれ45年以上の付き合いです。ボナ植木パルト小石、共に専修大学の同級生で、私よりも2歳年上です。私は若いころから老けていたし、子供のころから舞台に上がっていたために、芸の上では先輩ですが、年齢では彼らが年上です。

 ボナさんは典型的な東京育ちの坊ちゃんの性格をしています。出世欲がなく、趣味に生きることに喜びを感じていて、その趣味も、なかなか審美眼があっていい趣味をしています。

 生活の仕方もかなり細部にこだわりがあって、自分の生き方が細かく決められています。私のように強気な発言をすることはありませんが、しっかりした判断力を持っています。コンテストの審査員などをすると、挑戦者にいいアドバイスをします。

もっと、マジック界はこの人を活用したらいいのにと常に思います。

 

小野坂東さん

 この人にはどれほどお世話になったか知れません。今でもお世話になっています。マジック界の中で一番数多く一緒に飲んだ人です。毎月一回は朝に電話をしています。話せば軽く1時間話をします。私は普段人と長電話はしないのですが、この東さんとの電話だけは長くなります。それは、この先どうしていったらいいかと言う問題が起きると必ず電話をするからです。すなわち私にとって東さんは司令塔のような人です。

 若いころの私に、「外国に出なさい、世界のマジシャンを見なさい」。と勧めてくれたのは東さんでした。リサイタルを勧めてくれたのも東さんです。「リサイタルをやってどんどん作品を作り溜めなさい」。と教えてくれました。

 「コンベンションを開催して、アマチュアとプロと一体になった組織を作りなさい」。と言ったのも東さんでした。実際35歳の時にSAMの日本地域局を起こして、機関誌を発行し、毎年世界大会を開催しました。但しこれは私にとって大きな負担になり、随分苦しい思いをしました。 何から何まで、私の今日の生き方を決めてくれたのは東さんです。

 

 古い仲間を言うなら、演出家の木下隆さん、マジック研究家でお医者さんの綿田敏孝(lilliput)さん。それから東さんの子息の小野坂聰さんなども大切な仲間です。一昨日、猿ヶ京に尋ねて来てくれた六本木信幸さん。この人は、明治大学のマギーグルッペ(マジックグループのドイツ語)の中興の祖とも言うべき人で、もう今は仕事を終えてマジックを通して地域活動のために働いています。かれこれ45年の付き合いです。彼は群馬県の伊勢崎に住んでいます。私が若い人を指導していると言う情報を聞いて、毎年、猿ヶ京に尋ねて来てくれます。何を話すわけではないのですが、一緒に稽古場にいて、若いマジシャンの練習する姿を見ています。45年経っても、こうして会って、普通に会話ができることが嬉しいものです。

 マジシャンでは、ケン正木さん、カズカタヤマさん、特にケンさんとは50年来のお付き合いの、古い仲間です。性格のいいマジックに愛情のある人です。

 

アーノルドファーストさん

 さて、本題のこの人の功績は、アメリカに若い日本のマジシャンを紹介したことです。高木重朗先生、二川滋夫さん、旭人さん。色々な人を紹介して、アメリカ中のマジッククラブに連れて行き、レクチュアーやショウを企画した人でした。ドイツ系のアメリカ人で、本名はアーノルド・フースタンベルグと言います。但し、第二次大戦中は、アメリカとドイツの関係が最悪だったため、名前を変えて、ファーストと名乗りました。以来アーノルドファーストで通っています。

 彼は、第二次大戦中、同じドイツ系のマジシャン、ビルラーセン(マジックキャッスルのオーナーのビルラーセンの父親、同名)などと交流を持ち、同時にロサンゼルスにいた、石田天海(世界大戦中は、中国人を装って、天海を中国読みしてテンハイと名乗っていました)。なども、枢軸国側の人間だったため、互いに支え合って生きていたようです。

 そうした縁があってか、彼は大戦後も日本人の面倒を良く見ました。戦後になって、度々来日して、日本のテレビに出演していました。話は前後しますが彼は催眠術師でした。医学博士の称号を持っていて、日本に来ると、国際文化会館のホテルに必ず泊まりました、ここは医師でなければ宿泊できません。素晴らしい環境のホテルですが、医師会が補助をしているため格安で泊まれます。今も、麻布の鳥居坂にあります。(元は江戸の策謀家、鳥居躍蔵の屋敷跡がそっくりホテルになっています)。

 然しながら、彼の催眠術はショウであり、彼の催眠は本当には罹らないのです。それがなぜ博士号を取れたのかは謎です。そのことは後でお話しします。私も子供のころファーストさんの催眠術をテレビで見た記憶があります。

 然し、催眠術ショウはそれ一芸ですので、何度もテレビに招かれるようなことはありません。やがて飽きられて行きます。それはアメリカでも同様で、戦後すぐくらいはいい稼ぎを上げたようですが、いつしか舞台出演のチャンスもなくなって行きます。

 然し、それでもよくテレビに出ていた人ですから、アメリカの古いマジシャンの間では抜群の知名度を持っていました。ファーストさんの人脈は素晴らしいものでした。

 私がアメリカに行ったときに、ファーストさんに見込まれ、レクチュアーとコンベンションのゲスト出演のスケジュールを作ってくれました。1979年以降毎年、私はアメリカでレクチュアーツアーをすることになりました。その話はまた明日。

続く