手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アーノルドファーストさんのこと 2

玉ひでなど

 今週土曜日(21日、11時30分会場)は人形町玉ひでで手妻の会があります。私のほかには、日向大祐さん、ザッキーさん、前田将太が出演します。3日前のNHKBSのクールジャパンの反応が好評で、ぜひ手妻が見たいと言う問い合わせが来ました。

 来月の玉ひでは、12月19日です。これも何件か申し込みがあり、残り座席はわずかです。いい流れです。毎回先々まで予約が決まって、席が取れない状況になって、当日にはダフ屋が出る状況になったなら有難いことです。そんなこともこの先には十分起こりうる話です。ご興味ありましたら、お早めにお申し込みください。

 

 12月4日に、大船の芸術文化館で、柳屋三三師匠の落語会があります。そこに私が出演いたします。年の暮れにじっくり落語も面白いかと思います。かなり大きな舞台ですので、傘出しから蝶までを演じます。人力車に乗って引っ込むところも演じます。間にサムタイ、おわんと玉を演じます。こちらもご興味ありましたら、お申し込みは m-aki@df7.so-net.ne.jp まで。

電話でのお申し込みは0467-23-0992まで。

 

 

アーノルドファーストさんのこと 2

 さて、1980年にアメリカに行くことになりました。と言っても出演ではありません。高木重朗先生に付いて行って、IBMパサディナ大会を見て、PCAMシアトル大会を見ること。この二つのマジック大会に出かけるツアーです。

 当時は1ドル240円の頃でしたから、アメリカに行く航空運賃と、8泊の宿泊費用を合わせて45万円もするツアーでした。一本1万5千円でキャバレーに出演している身としては簡単に作りだせる金ではありません。然し、何とか費用を捻出しました。

 その年の初めに、東京に、ファーストさんが来ていて、レクチュアーをしたり、トリックスの新製品の英文解説書を作るアルバイトなどをしていました。私はトリックスには頻繁に出入りしていて、ファーストさんを良く知っていました。

 「アメリカに来るなら、各地のマジッククラブでレクチュアーをするといいよ」。と言われていましたのでIBMとPSAMの日程を伝えると、早速レクチュアーの日程を作ってくれると約束してくれました。但し、その日までに、レクチュアーノートが必要だと言われました。レクチュアーノートは既に持っていましたので、それを渡し、英文にする作業はロサンゼルスですることにしました。

 前年(79年)にFISMのブリュッセルに参加して、その大会の大きさに驚きました。以来頭の中はすっかりコンベンションに感染しています。そこで翌年、アメリカのIBMに参加したわけです。パサディナはロサンゼルスの衛星都市で、小さな町でしたが、IBMは1000人も集まる大きな大会でした。ダイバーノンも来ていましたし、ノームニールセンもいました。実に盛大な大会でした。

 ブリュッセルの時もそうでしたが、大会中は私はずっと和服で参加していました。何とか目立って、仕事にありつきたいため、和服は目立って売り込みには最適です。

 パサディナが終わって、ロサンゼルスのホリディインに移り、それからシアトルの大会まで3日間は予定がありません。昼は必ずハリウッドマジックショップに行き、冷かしていました。この時ショップにいたのがジョナサンニールブラウンで、会うとすぐ仲良くなりました。晩にはマジックキャッスルに入り浸りで、見るたびキャッスルに出演したくなりました。

 毎日夕刻にファーストさんが来て、ホテルの部屋で、レクチュアーノートの英訳をしてくれました。氏は、古いタイプライターを持参して(この時まだパソコンがなかったのです)、私が演じる演技を見て、英文を作って行きます。私の頼りない英語と、ファーストさんの数少ない日本語を頼りに文章を作ります。毎回3作くらいの訳を書き上げました。付属に持ってきた小道具の解説書なども丁寧に仕上げてくれました。

 毎日が楽しいことの連続でしたが、なんせ1ドル240円でしたから、何をするにも金がかかりました。7ドルのランチでさえ、チップを併せると日本円で2000円近いのです。無論、日本よりもボリュームはありましたが、一回の食事が2000円は応えます。そこへ持って来て、高木先生の行く店はかなり贅沢な店が多く、一緒に行くと1日に使える予算が一瞬でなくなってしまいます。

 シアトルへは小さな飛行機で行きました。町も見渡せてしまうほどのサイズで、大会もPCAMはIBMから比べるととても小さな、ローカルなコンベンションで、300人程度の参加者でしょうか。誰がメインに出演していたのかも覚えていません。

 再度ロサンゼルスに戻って、一晩キャッスルを覗きに行きました。なんせお客様の筋のいい所ですので、何とかこういう場所で出演したいと思っていました。すると偶然にも、翌日の出演者で来れない人がいます。ショウマネージャーは大慌てです。私は和服を着て、バーのカウンターで酒を飲んでいます。その私にショウマネージャーが寄って来ていきなり、「君、明日1日だけ出演してくれないか」。と話を振ってきました。

 それ、待ってました、私はこんなこともあろうかと、手妻をいくつか持って来ていました。翌日高木先生の一行とお別れしました。そしてその晩のためにホテルでずっと稽古をしました。晩にはキャッスルに出演しました。

 連理の曲で吹雪を散らすのがトリネタです。途中にサムタイを入れました。サムタイはアメリカでは全く知られていないマジックだったようです。うまい具合に観客は大喜びで、拍手が鳴りやみません。

 ショウマネージャーが飛んできて、「君ならいつでも出演させてあげるよ」。と言ってくれました。「ただし、アメリカで最初に君を見出したのは俺だぞ。それを忘れるな」。と念を押されました。と言うわけで、私は一切オーディションをしないで、以後自由にキャッスルに出演する資格を得ました。

 

 それから数日後、ファーストさんとレクチュアー旅行をします。ロサンゼルス、を核に周辺4か所レクチュアーしました。反応は上々です。そして日本に帰国をしました。

 初めてのアメリカ旅行は収穫の多いものでした。翌年夏のキャッスルの出演も決まりましたし、レクチュアーも好評だったので、来年はもっと多くのレクチュアーツアーを作ることをファーストさんが約束してくれました。この時は自身の人生は何もかもうまく行っていると思っていました。

続く