手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

Max Maven (マックス・メイブン)

Max Maven

 

 マックスさんが11月2日(日本時間3日)に亡くなりました。そのことを一昨日(5日)に知りました。死因は脳腫瘍。体調がよくないこと、4か月前に手術をしたことは聞いていました。それが脳腫瘍だとは知りませんでした。

 私としては情報がないため、昨日朝、小野坂東さんに電話をして話を聞きました。東さんのところには、亡くなる前日、11月1日にマックスさんから電話があったそうです。声はしっかりしていたそうです。

「もう僕は長くはない。楽しいお付き合いをありがとう」。と言うものだったそうです。知名度もあり、多くの人に影響を与えたマックスさんでしたが、親友と呼べる人は多くはなかったようで、数少ない親友が小野坂東さんだったようです。

 実際、東さんとマックスさんが相当に親密な話をしている姿を私は見ています。話は多岐に渡り、二人でなければわからない話をしていました。無論私が意見を挟むことは出来ません。そんな時は席を外しました。

 唯一日本文化や、手妻のはなしになると、三人で面白い会話が出来ました。マジック界で日本文化を話せる人は、残念ながら、日本人のマジシャンにはいませんでした。彼は英文で「手妻」の本も出しています。

 

 このところ、東さんは何人も仲間を失っています。然し、多くは高齢者ですから、諦めも出来るでしょう。それが72歳の有能なマジシャンとなると、ショックも大きいでしょう。11月1日の電話は寂しい内容でしたが、それでも翌日亡くなるとは予想もしていなかったために、いきなりの死亡で、東さんは相当に寂しそうでした。

 

 マックスさんは、本名共にMax Mavenユダヤアメリカ人。お父さんは、科学者で、アインシュタインの研究所に勤めていたそうです。そのため、10代まではボストンに暮らしていて、その後ニューヨーク、そしてロサンゼルスに移り住みました。

 私はロサンゼルスでマックスさんと出会っています。互いが20代でした。私はマジックキャッスルに行くときには必ず着物姿で出かけていました。その初回の訪問の時に、受付嬢が、「ネクタイのない方は入れません」。と拒否されました。

 たまたまそこを通りがかったマックスさんが、「これは日本の正装です。アメリカで言うテールコーツ(燕尾服)と同じです」。と口添えしてくれました。お陰で私は入場出来ました。更には、マックスさんが、ビル・ラーセン(キャッスルオーナー)さんに、着物も礼装として認めたほうがよい、と行ってくれたそうです。

 こうして私は毎回着物姿でキャッスルに入ることが出来ました。マックスさんはこの話をその後も、折あるごとにみんなに話していました。

 マックスさんは日本文化にものすごい造詣がありました。会った当初から、慣れない日本語で話しかけられました。宮本武蔵五輪の書、禅、歌舞伎、能、浮世絵、日本の文化は何でも知識として納めていて、日本に来るたびに博物館などに行っていました。

 ある時、「足袋の先が割れているのが、悪魔の足のようでいい」。と言って、黒足袋を欲しがりました。ところが、マックスさんの足は30センチもあり、一緒に浅草中の和装屋さんを歩いてもなかなか黒足袋の30㎝は見つかりません。

 足袋を探していると、彼が欲しいのは、ひざまでコハゼが付いていて足の裏にゴムが貼ってある地下足袋なのではないかと思い、尋ねてみると、予想通り地下足袋でした。そうなら作業衣装屋さんに出かけました。彼は大喜びで、それを買い求めましたが、その後地下足袋を実際ショウで履いたのかどうか。確認はしていません。

 その後、1992年の日本のSAMの組織立ち上げにもずいぶん協力してもらいましたし、ロサンゼルスで催されたヒストリカルコンベンションで、マックスさんが手妻についての研究発表をし、その日の晩には、私が舞台で蝶を演じました。その時のコンベンションは日本文化で盛り上がり、私はまるで貴重品扱いされ、主催者から丁重な持てなしをされました。

 

 さてマックスさんのライフワークと言うのは、メンタルマジックにあったようです。ようです、と曖昧な言葉でしか語れないのは、私がその分野の知識がないためです。これまで何度もマックスさんの舞台を見ていますが、彼が英語のニュアンスを駆使した、預言や、あて物をすることは私には今一つ理解しにくいものでした。

 そうした点では私はよき理解者ではなかったように思います。当人は頭の良い人ですし、多くの書物を読んでいますし、多くの研究発表をしています。恐らくメンタルマジックの世界では権威者なのでしょう。

 但し、言葉を生かしたメンタルマジックゆえに、仕事の範囲は英語圏アメリカ、イギリス、カナダ)に限られ、しかもメンタル愛好家と言う、かなり限られた人たちの間での活動だったと思います。

 同時にマジックも何度か見ていますが、どうも彼のマジックの内容がうまいのかどうかの私には判断がつきません。3年前のフロリダのコンベンションで、4つのカード当てを二時間かけて、間に休憩まで入れて二作、二作、演じたときには、余りの演技の長さで、観客の三割がいなくなっていました。いまだにこのマジックがいいマジックだったのかどうか、私には判断が出来ません。どうも晩年は、話が説教臭くなり、話が長いことが問題だったように思います。

 このフロリダのコンベンションに私が出演した翌週、ロサンゼルスのマジックキャッスルに出演しました。同時にマックスさんもキャッスルに来ていて廊下で私に、「今日は蝶をしますか」、と尋ねられました。「やります。冒頭に傘出しをして、そのあと蝶をします」。「いいですね、サムタイはしますか」。「サムタイは無理です。傘出しで7分、蝶で7分ですから、更に10分かかるサムタイは無理です」。「でも、サムタイも見たいです」。「いや、無理です。全部やったら25分かかります。峯村さんとアメリカのマジシャンと私が出演して40分のショウですから、そのうち25分を私一人でやることは出来ません」。「いいじゃないですか、是非やって下さい。ショウマネージャーに私から話しておきます」。

 マックスさんの一方的な希望で、私はフルショウをすることになりました。その晩、客席の二列目の席でマックスさんが熱心に私の演技を見ていました。その表情は、まるで少年のような輝いた瞳でした。あんな顔を今までマックスさんから見たことはありませんでした。終演後に何度も感謝されました。

 実は40数年前、初めて私がキャッスルに出演したときに、彼は毎日客席で見ていました。初めて文書でなく生きた手妻を見たのです。あの日の記憶を思い出して見ていたのでしょう。「もう二度とロサンゼルスで手妻を見ることはないだろう。せめてもう一度青春の思い出に浸りたい」。そう考えていたのでしょう。今思えばあのとき、既にマックスさんは自身の死期を悟っていたのかも知れません。あの表情の意味を昨日悟りました。

 合掌。

続く