手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

継承者はどう育てる

継承者はどう育てる

 アメリカのプロやアマチュアを見ていると、古いマジックにあまり興味を持とうとしません。古い作品は、古いと言って、見向きもせず、演じる人もなく忘れ去られて行きます。それが素晴らしい作品があったとしても、人は気づきません。

 私が、20代で、アメリカ中のコンベンションや、マジックキャッスルでサムタイを演じて回った時には、既にアメリカでサムタイを演じる人はほとんどいなかったのです。全くいないわけではなかったのですが、残念ながら、残された演技は不思議さもなく、品格もないものでした。

 多くのマジック愛好家は、私の演技を見て、「サムタイとはこう演ずるものなのか」。と知り、サムタイの不思議さを再評価するようになりました。

 本来のサムタイは、200年くらい前のイタリアのマジシャン、ピネッテイが演じて知られるようになり、その後多くのマジシャンが演じるようになりました。紐で両親指を結んで、その状態で、柱やリングを貫通すると言う現象です。

 使用するものは紐2本ですから、軽便で、どこでもできるため、19世紀の世界中のマジシャンが演じていたのです。然し、流行が去ると演じる人はいなくなり、やがて似た現象が、手錠でできるため、手錠抜けと言うマジックに変わって行きました。

 その後、明治34年松旭斎天一師が3年にわたってアメリカ、欧州公演をした際に、サムタイを披露したことで、人気が再燃しました。実際天一のサムタイは不思議だったのです。それを10歳のころに見たダイバーノン師が、「生涯で一番不思議なマジックだった」。と述べています。

 その天一のサムタイは、幕末期か、明治初年に、西洋奇術師が日本に来て、教えたものが基になっています。日本の奇術師がそれを覚えたのですが、天一は、恐らく初代帰天斎正一(きてんさいしょういち)から習ったのでしょう。帰天斎は西洋奇術師と言う看板で一世を風靡し、サムタイも西洋奇術として披露しています。帰天斎から受け継いだ天一は、自身の工夫を加え、風格と不思議さが加味されました。

 天一の映像は残っていませんが、聞き書きを頼りに想像するには、天一の動きは風格があり、実にスローだったようです。両指を結んだ手が、ゆっくりと刀の刃を通過する姿は正に神業を見るようだったそうです。実際私は、バーノン師から、天一がどういう動きをしてサムタイを演じたかを実演で見せてもらいました。

 奇しくもそれは私の動きと同じでした。私の20代の頃は日本では松旭斎一門がまだ30人以上も残っていて、その人たちが師匠から弟子へと営々と受け継いでいたのです。こうして天一のサムタイは残ったのですが、但し、やり方が雑になっていました。

 両指を結んで、刀を通過させる際に、どうしても指がごちゃごちゃと動きます。手を広げて見せて、そのまま両手を拝むようにして合わせ、指が微動だにせずに貫通し、貫通した後も指が全く動かないまま手を広げて見せると言う動作は、残念ながら当時のマジシャンはできていませんでした。

 私は、天一を見た、と言う明治時代の人の聞き書きを何度も読んでいるうちに、あることに気付き、それを実践してみると、まさにこれ以外ありえないと言う技法を見つけました。それをアメリカで演じた時に、、ダイバーノンから、「まさに君のサムタイは、70年前に見た天一そのものだ」。とお墨付きを貰ったのです。

 

 私は30を過ぎたころから弟子を取って指導することを始めました。当時は、イリュージョンの仕事が主でしたから、人手が必要です。そのため、弟子を取って、給料を支給して、マジックの基礎や手妻を教えていました。

 給料をもらって、マジックが習えるなら、こんないいことはないように思いますが、弟子を取るにしても誰でもいいわけではありません。やはり育てて育て甲斐のある人でなければだめです。一言で言えば、センスのある人でなければこの社会で生きるのは無理です。センスと言う言葉はその昔は「芸質(げいたち)」と言いました。今でも、「あいつのすることは質が悪い」などといいますが、その質です。

 つまり、教えたことをすんなり会得して、稽古してゆくうちに師匠に近い技量まで演じることが出来る。しかも、ちょっと工夫を入れて、あか抜けたものに作り替えられる。そんな人が芸質がいいと言うのでしょう。

 「マジックが死ぬほど好きです」。と言って入門を希望して来る人も、その実、マジックが好きなのではなく、マジックを演じて人から誉めそやされている自分が好きなだけなのです。本当にマジックが好きな人はごくわずかです。

 随分多くの弟子を取りましたが、なかなか育ちません。技量の巧い拙い以前に、遅刻をし、稽古もせず、本舞台で平気で失敗し、怒ればよそで私の悪口を言い。やめれば勝手に私の演技をコピーし、どこかで無断で演じる。そんな弟子ばかりでした。

 それでも人を育てることは必要です。それは自分の寿命は限りがあるからです。いつかは誰かに私の芸の蓄積を譲らなければなりません。一番熱心で、手妻やマジックの好きな人にそれを譲ることが一番です。

 習う側にすれば、何百年も続いて来た秘密を、或いは師匠が苦労して掴んだ技を、かかった時間をそっくり短縮して覚えることができます。師匠が作り上げた30年の蓄積を譲り受けたのなら、その一作だけでも、周囲のマジシャンよりもはるかに高い位置に立てるのです。そうであるなら願ってもないことですが、そう簡単には教えられません。

 弟子は、私に何かあれば、私に変わって手妻の世界の柱となって行く人になるかもしれないのです。それなりの知識と技量があって、人格が備わっていなければ中心には立てません。それだけに弟子は慎重に選ばなければならないのです。

 そして、手妻は古いものをそのまま受け継ぐことが手妻だと思っている人が殆どなのですが、それは大きな間違いです。古い物をただ受け継いだだけならすぐに廃れてしまいます。次の時代に残すと言うのは継承だけでは出来ないのです。そのことは明日またお話ししましょう。

続く