手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

誕生日

誕生日

 12月1日は私の誕生日です。「だから」。と問われても別に意味はありません。12月1日は石田天海先生の誕生日と同じ日です。「それが何か」。と聞かれても答えられません。12月1日生まれは手先が器用です。と言っても誰も信用しません。嘘ですから。

 私は1954(昭和29)年12月1日、東京大田区池上に生まれました。今日66歳になりました。特に誕生日を迎えても喜びはありません。子供の頃は誕生日が楽しみでした。ケーキを買ってもらったり、鶏の腿を食べさせてもらったり、貧しいながらもそれなりに親から祝ってもらいました。でも、最近は、生クリームが体に悪いとか、カロリーの多い食事がいけないとか言われ、食べるものもアルコールも制限されています。誕生日が来てもはしゃぐことはなくなりました。

 

 さて、子供のころから舞台に立って、今日まで全く、他の仕事をせずにマジックだけで生きて来ました。これは私にとっては何でもないことでしたが、周りのマジシャンからすると、「それだけだけでも幸せな人生だ」、と言われます。

 まったく気ままな人生でした。あそこの何が食べたい、ここの何がおいしいなどと言って、飲み歩いたり食べ歩いたり、服装や、小道具にも少しこだわって生きて来ました。来月、再来月の仕事が本当に来るのかどうかなんて保証はどこにもないのに、仕事の電話は途切れることがなく、少なくとも今年の2月までは、毎月自分と家族と弟子が生きて行くだけの収入はありました。

 特別マジシャンとしての才能があるとも思えず、独創的な閃きがあるわけでもないのに、今日まで生きて行くことが出来ました。世間の皆様に感謝しています。

 

 今から5年前に、NHKのお正月番組で蝶を飛ばしたのですが、その半月前から突然、左手の中指と薬指が動かなくなりました。自分の意識が全く指に伝わりません。無理に指を曲げると、今度は伸びなくなります。正直困りました。然し、稽古をしてみると、何とか出来たのでNHKに向かいました。

 実際、リハーサルは何の問題もなく出来ました。ところが、本番で蝶の紙が指に絡みました。その絡んでいることが脳に伝わってこないのです。タネに関わる重要な紙ですから、何とかしなければいけません。然し、感覚がないと言うことは指令が出せません。おかしな動きをして、さんざんな演技になりました。これが生番組でした。

 この時、正直引退を考えました。然し、手術をしたら元のように指が動くようになりました。治ったのなら良しとして、結局舞台を続けることにしました。

 但し、この時私は自身の寿命を知りました。それまで入院などしたこともありませんでしたが、いつでも自身が何事もなく生きて行けるわけはなく、ちょっとした事でも芸能人生が失われることを知りました。人の寿命を知ったのです。

 そこで、色々考えて、若い人に、私がこれまで学んだマジックを教えて行くことにしました。弟子にはこれまでも指導を続けて来ましたが、もう少し幅を広げて教えようと考えたのです。高校生や大学生を集めて月に一回、無料で基礎指導を始めたのです。

 それは3年続きました。その中でお終いまで残ったのが今弟子修行している前田です。学生指導は一度絶えましたが、一年後に別の形で復活することになりました。

 

 私のアトリエには今、若い人が9人習いに来ています。他にも、社会人の方々が10人いますので、東京では、約20人を教えています。私は別段教えることが仕事ではありませんので、これで会社(東京イリュージョン)が維持できるものでもありません。

 私は若いころから、真剣に継承者を作を作ろうとしてきました。人の寿命には限りがあります。然し、人の寿命を超えて、作品が残ったり、名前が残って行くのは、人を育てた人だけです。私には、この50数年間に直接師匠や、古いマジシャンから習った手妻やマジックの作品が残されています。私が先人に教えてもらったことは次の時代に伝えなければいけません。

 あまりマジックの世界で継承を考える人は多くはないように思いますが、技も芸術も一代では完成しません。人に伝え、残して行くことで、深遠な芸術が完成します。

 

 昨年の初夏に、日向大祐さんが、ザッキーさんを連れてやって来ました。この話は以前ブログに書きました。私は10年前、大学生だった彼を覚えていました。その彼が私の事務所にやってきて、すぐにでも会社を辞めてプロになりたいと言います。なぜ私にアドバイスを求めに来たのかはわかりません。但し、話を聞いていると、プロとして生きて行くすべが曖昧でした。

 そこで私は、「一年基礎を勉強して、初心に戻ってマジックを学び、一年経ったら、自分のショウを催してみて、お客様から反応を聞いて、それ次第でプロになったらどうか」。とアドバイスをしました。

 それから、毎月一回、基礎指導が始まりました。この話に日向さんと、日向さんの友人の古林一誠さんも参加してきました。昨年の10月から開始して、途中コロナウイルスで二か月休みましたので、今月で一年の指導が完了します。この間に人が増えて、若手は9人になりました。

 

 一年間の基礎指導はザッキーさんにとっては、よかったと思っています。なぜなら、指導を始めて数か月後にコロナウイルスが蔓延して、多くの芸能人は生活が成り立たなくなってしまったからです。あの時、逸(はや)った気持ちのまま会社を辞めていたなら、年明け早々から舞台の仕事が絶えて、会社を辞めたことで収入もなく、いきなり失業していたでしょう。私が予言して言ったことではなかったのですが、一年の勉強期間は無駄ではなかったのです。

 更には、この一年、基礎を学んで、自分に欠けていたもの、自分がやらなければいけないことが見えてきたはずです。それがわかっただけでも、無駄足を踏んだわけでもなければ、遠回りをしたわけでもなかったはずです。目的に向かって、まっしぐらに突き進むばかりが成功の近道ではなく、その前に、ちょっと立ち止まって、人の意見を聞くのは大切なことです。

 私の知る限り、プロになりたい人は、簡単にプロになってしまいます。それを許してしまう日本の芸能界も問題です。プロになるのは結構ですが、いざなってしまうと思いもよらない問題が山積して、すぐに行き詰ってしまいます。

 一年前に、彼が未熟な演技を披露して、飛騨牛を食べたことを私が面白おかしくブログで揶揄しました。それをネットで反発する人がいて、しばしブログが賑やかになりました。さてあの時私が書いたことが何だったのか、もう一度考えてみてください。そんなに簡単にこの道で生きて行けるものではなかったはずです。

 さてザッキーさんは、今月に基礎指導を終え、来年3月に自分のショウを開催するそうです。いい流れです。どうか皆さんで応援してあげてください。

続く