手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人生相談

人生相談

 

 このところ、若いマジシャンや、いろいろな人から、相談事を持ち込まれます。そもそも、なぜ私に相談をしようと思うのかが分かりません。何となく何でも知っているような顔をしているからかも知れません。

 私は見かけは頭が良さそうに見えるかも知れませんが、中身は全く頼りになりません。全然世間の役に立たないのです。

 一つ考えられるのは、20年も前に、マジック雑誌に「そもそもプロマジシャンと言うものは」。という連載を書きました。その後にまとめて書籍となって発刊されました。それをいまだにコピーなど取って、熱心に読んでいる学生マジシャンやら、アマチュアさんがいるそうで、そうした方々から時々メールをもらうことがあります。本になってももう10年以上たっているのにです。

 本の中で私は、若いマジシャンの味方になっていろいろアドバイスをしています。そして偉そうに、マジシャンの生きる道を説いています。本当の私はそこまで人に親切ではないのです。むしろ若いマジシャンにはあまり興味はないのです。若い人と話をしても、考えが伝わらないことが多く、言えば言うだけストレスが溜まるため、あまり話をしたくはないのです。

 相手が明らかに間違ったことを信じ込んで、むきになって私に力説されたりすると、「この人には、言ってもわからないんだろうなぁ」。と思い、自然と話を止めてしまいます。「相手の強い思い込みを解きほぐして、正しい道に導こう」。などとは、ゆめゆめ考えてません。人の気持ちなど変わるものではないのです。

 にもかかわらず、次から次と人が訪ねて来ます。そして私と話をしたがります。なんででしょうか。思うに、訪ねてくる人は、私に認めてもらいたいのでしょう。「技術的に優れている」。とか「オリジナリティが凄い」。とか、「プロマジシャンになったらきっと売れるよ」。とか、甘いお誘いの言葉を求めているのでしょう。

 最近の私は、先ず、人を否定しないように心がけています。なるべく相手の立場を尊重して、相手のしたいことを肯定するようにしています。恐らく第三者が私と若い人との会話を聞いたなら、「なんて優しい爺さんなんだ」。と思うでしょう。

 本心の私は、「ここでこの人を否定しても意味がない。もう少し物が分かるまで意見は言わないようにしよう」。と思っているだけなのです。それでも、穏やかに人の話を聞く私を見れば、「自分も、相談してみようか」。と思うのかも知れません。

 でも、そもそも、私などに相談しても無駄です。もっともっと有名なマジシャンが何人もいるでしょうから、そこへ行って話を聞いたらいいと思うのですが、なぜか私を狙い撃ちしてきます。

 

 どうも彼らは私に褒めてもらいたいのです。話をすると言うよりも、承認欲求からやって来るようなのです。そして私の言葉を心の支えとしたいのです。でも、もっと有名なマジシャンがいるでしょう。いや、そこへ行くには敷居が高いようなのです。私ならお手軽に出かけて話が聞けて、褒めてもらえる。至って便利なマジシャンなのでしょう。

 

 私自身も、若いころ、ダイ・ヴァーノンや、チャニング・ポロックや、シルバンや、ノーム・ニールセンなどのビッグスターに褒めてもらった時は嬉しかったです。これでマジックの世界で生きて行ける。と確信しました。然し、それはぬか喜びでした。多くの名人上手の褒め言葉はリップサービスなのです。

 尋ねてくる人の中には、「僕はこの先どんなマジックをしたらいいのでしょうか」。などと聞いてくる人があります。「分かりません」。この人が何がしたいのか、何が得意なのか知りません。今会ったばかりで、演技も見ていないし、何もわかりません。

 「マジック界はこの先どうなって行きますか」。「分かりません」。世の中がこの先どうなるかなんて全く読めません。私自身がこの先生きて行けるかどうかもわからないのですから。自分の行く先は自分で決めなければならないのです。

 「スライハンドが復活する出る可能性はありますか」。「クロースアップで大きな話題を作れる可能性はありますか」。「分かりません」。全く予想不可能です。若くてセンスのあるマジシャンが現れれば、一気に活況を呈する可能性はあります。それもこれもあなた次第です。スライハンドでもクロースアップでも、人気を集めて、たくさんの観客を持ち、一人のマジシャンの出現が、100人も200人もの後輩を生み出すようなことが起こるには、あなたがその中心に立つかどうかで決まるのです。

 その覚悟があって、プロ活動をして行こうとするなら、何も私に進路を聞くまでもなく、自分の信じた道をそのまま生きて行ったらいいのです。

 20歳の人が、70歳までマジシャンを続けるとすると、50年間活動ができます。それほど長い人生を「あなたならやって行けますよ。大丈夫です」。などと、安易に約束出来ないのです。「いや、それでも、何でもいいから、安心させてもらう意味で認めて下さい」。

 「あぁ、なるほど、おまじないですね。それなら褒めましょうか」。と褒めかけて、話をし始めると、相手の思いの中にある頑ななまでの思い込みに突き当ります。「あぁ、これは崩せないなぁ」。と思うと、褒め言葉の先が出て来なくなり、「まぁね、いいと思いますよ。あなたならきっと上手く行くと思います」。などと曖昧な言葉に終わってしまいます。

 仏像でも、お地蔵さんでも、どれも柔和な顔をして、常に訪ねてくる人に微笑みかけています。然し、どれを見ても心の底から笑ってはいません。微笑みかけたまま止まっています。なぜ止まっているのか。それは本心から笑ってはいないからでしょう。本心は相手を心配しているのでしょう。

 「危ないよ」。「そのままでは上手く行かなくなるよ」。「そんなことで成功は掴めないよ」。と言いかけて、「言っても分からないだろうなぁ」。と、相手を見て言葉を引っ込めているのです。それを世間の人は見掛けだけを見て、「優しい顏だ」。と有難がっているのでしょう。

 私と神仏を比べて云々することは恐れ多いことです。ただ、なるべく穏やかに話をするにはどうしたらいいか、と考えるうちに、ついつい仏様の顔を参考にさせてもらっています。然し、顔を真似つつも、よくよく見れば、仏様も実は、言いたいことも言えずに悩んでいるんだと気付いて来ました。仏様の心も複雑です。

続く