手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

しばし佇む

しばし佇む

 

 マジシャンが、プロになって活動するときに、その活動に大きな影響をもたらすものとして、 最も大切なことは、いつ、どこで、誰のマジックを見たか、と言うことです。出来ることなら、10歳くらいの純粋な年ごろに、「いいマジックを見た」。と言う幸運な体験すると、子供にとっては人生の宝物となり、マジシャンにとっては一生その体験から離れられなくなります。

 「いいマジック」言うのが、実に曖昧な表現ですが、世界中の多くのマジシャンから、マジックに遭遇した時の話を聞くと、演じてくれたマジシャンが必ずしも名人である必要はないようなのです。

 田舎でマジックを趣味としている、アマチュアマジシャンが、何気に見せてくれたマジックが忘れられず、そこからマジシャンの道が開けたというマジシャンが結構います。

 

 ノーム・ニールセン(故人)さんは、9歳のころ、地元の床屋の親父さんが、「マジックを見せてあげよう」。と言って、コインを手に握って、空中に放り投げ、消してしまいました。ニールセンさんは、只唖然として、空中を眺めていたのですが、やがて床屋の親父さんは、ニールセンさんの耳元から消えたはずのコインを出して見せたそうです。

 ニールセンさんは、この時の衝撃が忘れられず、何度も床屋さんに出かけて、「もう一度マジックを見せてほしい」。と頼みたかったのですが、それを言う勇気がなかったそうです。大変にナイーブな性格で、大人とまともに話が出来なかったのです。

 意を決して半年後にマジックを見せてほしいと頼むと、親父さんは喜んで、また、演じてくれたそうです。後で考えたなら、床屋の親父さんのマジックはそれほど見事なものではなかった、と思いますが、確実に、そのマジックによって、名人を一人生み出したことになります。

 

 ポーランドのマジシャン、サルバノ(故人)さんは、第二次大戦が終わり、ドイツ軍が去って、一時期、ポーランドが民主国家になったときに、サルバノさんはまだ高校一年生で、ある時友達が、「マジックショウを見に行かないか」。と誘ったそうです。それまでサルバノさんのマジックの知識は漠然としたもので、ショウとしてのマジックは見たことがなかったそうです。

 当時ポーランドではネモと言うマジシャンが有名で、友達とネモのマジックを見に行ったそうです。ネモは単独のショウで、たくさんのマジックを演じたそうです。その中で、ハンカチを手の中で丸めていると、卵になるマジックがあったそうです。

 友達が、「分かるかい?」と尋ねるので、「分かるさ、あれはきっと卵に穴をあけておいて、中身を抜いて、その中にハンカチを入れたんだ」。と推測を語りました。実際ネモはそれを舞台で種明かしします。卵の中に、ハンカチが入っていました。

 サルバノは得意で、「ほらね、僕が言った通りだ」。と自慢をしました。ところが、ネモは、もう一度卵ハンカチをしました。二度目に演じたときには、出来上がった卵を割って見せて、中から卵の黄身と白身が出てきたのです。これでサルバノさんは全く見当がつかなくなって、言葉が出なくなりました。

 

 二つの話は、ご当人から直接聞いた話です。マジシャンがいつ、どんなマジックを誰から見せられて影響を受けたかはとても大切なことで、その後のマジシャンの演技を決定づける場合すらあります。

 ここでお話ししたいことは、幼い頃や、若いころに受けた印象と言うのは、マジシャンを支配します。サルバノさんでもノームニールセンさんでも、彼らが昔、マジックを見た時の話をすると、そのしぐさや、マジックに必ず半世紀も前に演じたマジシャンの癖や演じた様子が出て来ます。70歳のマジシャンが9歳の時に見たマジックを、細かな描写を記憶していて、忘れずに再現するのです。

 サルバノさんはその後、プロマジシャンになり、やがてネモと同じ舞台を経験するようになります。その時ネモが楽屋でどうしていたとか、何を演じたとか、事細かに話をしますが、その時のサルバノさんは、まるで少年の時に戻ってしまい、ネモに対してある種の畏敬の念を持って語るのです。サルバノさんにとってのネモは、15歳で初めて見た時や、18歳でプロ活動を始めたときのまま、偉大なマジシャンとしての印象が残り続けているのです。

 

 一人のマジシャンが育って行くときに、多くのマジシャンの演技がそっくりそのまま、或いは断片的にでも記憶され、若いマジシャンの演技の中にインプットされて行きます。一人のマジシャンの演技は、実は多くのマジシャンの個性や癖、ハンドリングや表情を受け継いでできて行くのです。マジックはそうして継承されて行くものです。

 そうだとすると、マジックを演じる、或いは指導をすると言うことはとても責任の大きな行為になります。うっかりすると100年先まで影響を残します。良い影響ならいいのですが、悪く残って行くとマジックの世界そのものの程度を下げます。

 「芸は盗むもの」だと言いますが、意識するしないに係わらず、芸は盗まれます。ましてや、弟子の演技などは、もうそっくり私の表情、手順を盗られます。それはもう諦めています。但し、盗られると恥ずかしいものもあります。

 

 私が、丸めた半紙を左手で握って、じっと空を眺めてしばし佇(たたず)み、やおら吹雪を撒く動作をしますが、私が空をしみじみ無言で眺める動作が、弟子にとっては印象深いと見え、みんなたっぷり時間を取って空を眺めます。

 然し、手妻の歴史に中で、丸めた紙が吹雪になるために長い間(ま)を取ると言う演技は一つもありません。三代目帰天斎正一師でも実にそっけなく吹雪を散らしています。その吹雪も、撒く量はわずかで、親指の先ほどの吹雪を撒いて終わっています。

 それから比べると、私の演技は大時代的で、かなり個性の強い演技です。ところが、弟子は、それを真似したがるのです。じっくり天を眺め、しみじみと時間を取った後、吹雪を撒く動作を得意になって演じ、そこで自己陶酔をしています。

 まぁ、弟子がどんな演技をしようと構いません。但し、私が誇張をして作った演技をさらに誇張して演じられると「それは違うんだけど」。と言いたくなります。遠い将来、私が残した芸が、只天を眺めて、飛んでもなく時間を取って佇んでいる所を、「あそこが藤山のオリジナルだ」。などと後世の手妻師が言っていたとしたら、「その通り」ではあるけれど、「理由もなく、そこだけ協調されるのは嫌だなぁ」。と思います。どうかもっといい風に真似て下さい。

続く