手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

丸い人

丸い人

 

 人はどんな人生を歩んで来ても、ある一定の年齢に達すると、大体同じような人間が出来上がってくるように思います。若いころは短気で、喧嘩っ早い人でも、50,60と年齢を重ねて行くと、自然自然と穏やかな性格になって行く人が多く、子供のころ内気で、ほとんど人と話をしなかったような同級生が、40代になって会ったときには、すっかり、常識的な話し方をするようになっていて、びっくりすることがあります。

 

 例えば、ロータリークラブなどの食事会に誘われて、同席した異業種の人と話をすると、私と年齢が近い人たちは、その人の職業が、勤め人であっても、医者であっても、商店主であっても、それぞれ生きて来た道は違っても、大体同じようなことを考えていて、同じような行動を取るんだと知ります。

 

 私は時々講演を頼まれることがあります。講演は正味話だけをします。60分くらい話をするときがあります。内容は勿論、手妻のはなしです。私の舞台を見て、「藤山さんは話が面白いから、私の会社で講演をしてくれますか」。などと持ち上げられられて、それならばと引き受けるのですが、始めのうちは内心初対面の人たちの前で、しかも異業種の皆様に何を伝えてよいものか、随分と気を使います。

 聞きに来ている人たちは、社員の研修会であったり、市役所で参加者を募った市民であったり、同業の組織の会員であったり、銀行のお得意さんの集まりであったり、日本の歴史に興味のある人たちであったり、様々な人たちです。

 そうした人たちが手妻の歴史であるとか、私の弟子に対しての指導方法とか、古い芸能を作り直して、現代に通用するようにリメイクする活動だとか、海外で公演したときの経験だとか。そんなことを話して、その話を興味を持って聞いてくれる人がどれくらいいるだろうか、と、不安な気持ちでいっぱいでした。

 ところが、意外にも、参加者は私の言葉から、自分の経験に当てはめつつ理解しているようで、生きてきた人生は違っていても、自分なりに理解しようとしていることはわかります。

 

 特にマジシャンと言う人生はかなり興味に思うらしく、どうやってマジシャンになって、どうやって成功を掴んで、どんなところで活動しているのか、と言うことは相当な興味のようです。特に私のしているマジックは、手妻と言う、江戸時代に完成した日本独自のマジックですので、大変に珍しく、興味の方もたくさんいて、講演はかなり需要がありました。

 ありました、と過去形になっているのは、2009年に新潮社から「手妻のはなし」と言う本を出しまして、その反応がかなりあって、以後コロナによる自粛までは、講演のウェートが大きかったのです。正直この時、講演活動で生きて行けると言うことは、私にとって、最も望ましい活動だったのです。

 それは、マジシャンとして呼ばれてショウをする限り、常に早目に楽屋に入って、仕掛けをし、道具を組み、人を使って、打ち合わせをし、セットした種仕掛けを演じることでお客様の興味を集めて舞台をしなければなりません。ところが、講演は指定の時間に楽屋に入り、衣装を着替えることもせずに、着て来たままの衣装で舞台に立ち、手にハンカチなど握り隠して出て来なくてもよく、種仕掛けの興味ではなく、全く私への興味でお客様が集まり、私の語る人生を聞きたくて耳を傾けてくれます。

 私は、話だけで60分の講演をします。頼まれれば、90分でも話しました。無論、お客様が退屈するような、長い喋りは無意味ですが、結構喜んで聞いてもらえるのが分かると、講演は最も私がやりたかった舞台活動なんだと知りました。

 ところが、周囲を見渡しても、マジシャンで、講演活動をする人はほとんどいませんでした。「これほど世間が高く評価してくれて、大切に扱ってくれる仕事を、なぜマジシャンは狙わないのだろう」。と思っていました。

 冷静に見て、マジシャンと言うだけでは講演は難しいのかも知れません。手妻なら江戸文化や、日本の歴史に絡めて話が出来るわけです。そうした点手妻はカルチャービジネスとして有利に展開できるわけです。

 ただ、そうではあっても、実際、私以前の手妻の師匠連は、誰も講演活動をして来なかったのです。本も、種の本は書いても、手妻の歴史を書くことはして来なかったのです。せっかく手妻は宝物を持っていながら、生かすことをしなかったのです。それでいていつも仕事がないと言って嘆いていました。勿体ないことだと思います。

 講演を繰り返してゆくうちに、地方都市などに行くと、かなりアッパークラスの人の集会に招かれることも多く、そこから得た人脈が、次の私の舞台公演にもつながって行き、舞台活動の幅も広がって行きました。

 これまでは、私のショウを見たお客様が口伝えで私を評価してくださり、出演が増えて行たのですが、本を読んで手妻が見たいと言うお客様が増え、全く私の舞台を知らない人から連絡が来て、出演のチャンスが来るようになったのは驚きでした。今までこうしたことで舞台を手に入れたことはなく、2009年以降、全く新しい支持者が生まれて行ったことになります。

 

 話を戻して、私は、講演で、よく失敗談を話します。元々余り自慢できる人生を歩んできたわけではありませんから、そうならいっそ、巧く行かなかったことをいろいろ話してやろうと、自分の失敗談をたくさん話ています。

 人前で話をするときに、ついつい教条的に、物を教えるような話し方をする人がありますが、学者や政治家ならそれもよいかもしれませんが、芸能芸術に生きる人は、あまり人にものを教えないほうが良いと思います。そもそも親の反対を押し切ってこの道に入ったような人が多く、周囲に迷惑をかけ続けて、ようやくどうにかなった人が多いのですから、余り自慢のできる人生ではないはずです。

 それが、講師になると一変して、「返事は大きな声で」だとか、「人に迷惑をかけるな」だとか、「目標を持って生きろ」だとか、どの口でそれを言っているのかと驚いてしまうようなことを言う人があります。

 歳を重ねれば自然自然と角が取れて、丸くなって穏やかなって行くのは普通なことですが、それは普通に働いてきた人がそうした境地に至るのは良いことだとは思いますが、およそ芸能芸術に携わる人は、人に教えられるほどの道徳を初めから持ち合わせてはいないのですから、もっと、ごつごつして、いつも不満を持って生きていないといい作品は生まれません。幾つになっても尖って生きて行った方が面白いのです。人は芸能人のそうした未熟な性格にこそ興味の眼差しを向けてくれるのだと思います。

 丸く穏やかな性格なんて、芸能に生きるものにとっては何一つ自慢のできる性格ではないのです。

続く