手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

付いている人 2

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 多湖輝(たごあきら)先生は、余り自分の過去を話す人ではありませんし、余り人生論を語るような人ではありません。自慢話もしません。人柄としてはごく穏やかな人で、どんな時でも言葉を選んで、平易に、かみ砕いて話をしてくれました。私は昔から年上の人の話を聞くことが好きでした。話の引き出し方も心得ていたのだと思います。私がいろいろ質問すると先生は色々な話をしてくれました。

 

 「私にしても、都築さん(ヤマト運輸の元社長)にしても、幸運な人なのです。それは藤山さんも同じです。私は大学にいて教授だけをやっていたら今の活動は何も手に入らなかったのです。

 都築さんもそうです。運送会社にいて、企業の荷物を輸送しているだけならごく普通のサラリーマンだったわけです。それが日本で初めて宅配便と言うものを始めたことで大きな成功を手に入れたわけです。人のやらないことを始めて、普通の世界から飛び出したから成功したわけです」。

「先生は大学教授でありながら、日本で初めてタレント活動をやって、同じ教授仲間から反発はなかったのですか?」。「ものすごい反発がありました。昭和30年当時などは、まだ大学教授がテレビに出るなんてとんでもないと言う時代でしたからね。テレビ、ラジオと言う娯楽の社会に、大学教授が出ること自体許されなかったんですよ。しかも、出版で大当たりしたものだから、反発が強くてね。随分嫉妬されました」。

 「先生にそんな時代があったんですか」。

 「ありましたよ。人がやらないことを始めれば、どんな社会でも反発があるでしょう。藤山さんでもそうでしょう。和装で、手妻なんて始めたらおかしな目で見られたでしょう。多くのマジシャンはマジックと和装の手妻が結び付きませんから、なかなか理解されないんですよ」。

 「全くそうでした。私のしていることはみんな古いと思っていたんです。勿論古いことは事実です。手妻ですから。でも、実は、私のしていることはトレンドなんだと言う自負が初めからありました」。「私も藤山さんの手妻を見て、そのことに気づきました。私は昔から日本の伝統文化とは無縁で、正直あまり興味もなかったのです。ところが藤山さんの演技を見て、全く今まで考えたこともない世界がそこにあることを知りました。私が知らなかった世界を藤山さんが持っていることが新鮮で、私はそこに興味を持ってずっと藤山さんを見ています」。

 「それが、人とは違う、独自のものを私が持っていると言うことですか」。「そうです。でもさっき言ったように、だから成功する、だからみんなが認めてくれると言うものではないのです」。「そのことが伺いたいのですが、何をどうしたら世間で認められることになりますか」。

 「それは、私が手妻のどんなことでも質問すると、即座に明快に答えるところです。ちゃんと私を納得させるだけの答えが藤山さんにはあるのです。簡単なようですが、これは簡単ではありません。どんなことでも一言で答えを言えれば大した才能です。あなたにはそれがある。だから支援するのです」。

 「でも先生、そのことが成功に結び付きますか?」。「結び付きます。難しい話を明快に答えることは才能です。大学教授の中でも、30年も50年も一つことを研究している教授が、素人さんに研究内容を説明する段になると、話が長くなったり、要領を得ない話をする人はたくさんいます。

 なまじ知識があることが、難しい話をより難しく話してしまうのです。これでは相手に何も伝わりません。頭がいいからとか、よく知っているからと言ってもその内容が伝わらなければ全く社会とつながらないのです。

 世の中に認められると言うことは、多くの人に理解されなければ認められたことにはならないでしょう。自分のしていることを明確に伝えられる人が成功する人なのです」。

 「私は時々講演を頼まれます。江戸の手妻師の話をしたりします。あるいは徒弟制度について話をしたりします。そうした活動も積極的にすべきですか?」

 「是非やるべきです。昭和の末から、平成にかけて、講演活動の幅が広がって、今ではいろいろな人が講演するようになったでしょう。料理の研究家でも落語家さんでも講演をしています。でも、講演を依頼される人たちと言うのは、自分のしていることの中の何が文化なのかをしっかり語れる人なんですよ。面白おかしい話の中に知性を語れる人が成功するんですよ」。

 「先生の頭の体操も、単なるクイズではなくて、必ずクイズの回答の後に、背景となる考えを解説していますよね。そこに知性が見えますね。あれが成功の種ですか」。「全くそう。今の人たちは、簡単なクイズでも、それがナンセンスの儘ではなかなか納得しないんですよ。答えを聞けば、なぁんだと言うものでも、どうしたら人の興味につなげられるか。そこを工夫して、知性を加味出来る人が成功するわけですよ」。

 

 言われてみれば、昭和40年代の演芸の世界と言うものは、全くナンセンスな笑いが中心の世界でした。マジックも、ただ道具と手順を並べて、10分15分演じればそれが収入になった時代でした。然し昭和が終わるころになると、ショウの流れははっきり変わって行きました。観客は非常に細かなところまでも内容を求めるようになってきましたし、知性も求めるようになってきました。それに合わせて演者であるマジシャンの存在も変わって行ったのです。

 人のやらないところに目を付ける。それは成功のきっかけになります。そして自分の活動を外の人に語る能力を持つ、これが成功する秘訣なのでしょう。そして、大きく世の中の流れが読める。例えば「今の時代は多くの人が知性を求めている」。と知ったときに知性を提供できる人が成功者になると多湖先生は教えてくれました。

 

 さて、多湖先生も都築さんも今は亡くなって、強力な支援者を失ってしまいました。いや、もう年齢的に私は、支援者を求める年齢ではないのでしょう。むしろ私が次の世代の人たちを支援してやらなければならない立場なのだと思います。それにしては頼りない手妻師です。

 私は決して大きな成功を掴んだわけではありません。川砂の中から小さな砂金を一粒見つけた程度の成功に過ぎません。これで別荘三軒は建ちません。それでも何とか、この先は、細々とマジック界のために活動して行こうと考えています。どうぞ大きな期待をせずにご支援ください。

続く