手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

マジックの二極化 1

マジックの二極化 1

 

 私が10代の頃、カードに仕掛けを加えて作品を作ることが流行していました。デックに穴をあけるだの、セロテープでカードの一部を張り付けるだの、ほんの少し加工するだけで、予想を超えた不思議さが生まれました。クリエーターと称する人たちがしきりに切り貼りして、ショップで販売していました。

 そうした中に、パケット物と言うジャンルが生まれ、数枚のカードだけで現象が起きるマジックがやたらと作られるようになりました、初めはバラバラのカードが4枚、カウントを数えているうちに全部エースになるなど、おとなしい作品でしたが、そのうち、カードにスクリーン印刷で、猫や魚の絵が刷り込まれ、カードの中の魚が増えたり減ったり、中にはカードにコインが描かれていて、4枚のカードを見せているうちに、コインが増えたり減ったりしました。

 それなら始めからカードを使わずにコインでやったらどうかと思いましたが、そんなことを言うのは私ぐらいでした。こうなると既にカードマジックですらないのですが、ショップやコンベンションではよく売れていました。

 然し、そうした流れとは逆に、「カードと言うものはワンデックで行うもので、加工だの、パケットだのは邪道だ」。と言う人がいました。カードに仕掛けをしていないと言うことの証拠に、常にカードマジックをするたびに新品のデックから収入印紙をめくり取り(当時はカードに印税が掛けられていました)、セロハン紙を破いて、その上でやおらカードマジックを始めていました。昭和の末のころの物語です。

 つまりフェアな状態でカードマジックをすると言うことがそのマジシャンのダンディズムなのでしょう。然し、そのダンディズムを満たすために、そのマジシャンは必ず新品カードのセロハンを破る所から演技を始めます。

 中のカードは順番に並んでいますから、それを入念にシャフルしなければいけません。散々シャフルを済ませた後に、カードマジックが始まります。この間2分程度のロスが発生します。ずっとお客様を待たせます。それを無駄とは考えません。

 このマジシャンのしていることは、ステージマジックで言うなら、マジシャンが普段着で出て来て、舞台の上でシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、舞台衣装に着替え、それからやおらマジックが始まると言う作業を毎回繰り返しているのと同じです。

 通常普通のマジシャンなら衣装を着替えて舞台に出て来るはずですが、この人はパンツを見せる所から始まり、堂々とフェアを語ります。誰も望んでいない改めをフェアだと称して演技をしているのです。

 いくらフェアだと言っても、使われているカードが、アメリカ製のギャンブル用のカードで、日頃、親戚とババ抜きをするときのプラスチックトランプとは別物のカードで、それ自体日本の家庭にはまず見ないものであったなら、フェアもフェイクもありません。飽くまで自己満足です。

 

 この話は、マジシャンの二極を表しています。カードを加工すると言うのは、いわばカードマジックにトリックを加えることを認めるかどうかの話です。方やワンデックで完結するカードマジックは技法を駆使してマジックを作り上げることです。マジックをトリックでするのか、テクニックでするのかはそれぞれのマジックの発生時期から成り立ちが違いますから、互いが譲らないのは当然なのです。

 どっちが崇高でどっちが正しいかと言う議論は昔からされています。然し、そんなことを議論する意味はないのです。

 

 肝心なことは、そこにいるお客様が何を求めているのかです。トリックを使おうが、技法だけでマジックをしようが、お客様から見たならどっちでもいいのです。見ていて面白くて不思議なマジックがいいマジックなのです。

 つまるところ、お客様が見たいマジックは、マジックの種仕掛けではなく、マジックを演じているマジシャンへの興味なのです。見ているだけで雰囲気があって、会話が面白く興味が尽きない、身のこなしが洗練されている。そんなマジシャンが見せてくれるマジックがお客様にとっていいマジックであって、パケットに描かれた魚も、カードのセロハンもどうでもいいのです。

 長い話になりましたが、これを前提にこの先の話をします。

 

 マジシャンがこの先、どこを仕事場として生きて行くかによって、演じるマジックは変わって行きます。映像の中で生きるなら、映像のテクニックは無視できないのです。

 テレビの中でいかに「トリックやギミックは使っていません」。と言っても、テレビ自体がからくり箱なのですから、からくり箱の中で「自分のしていることは怪しいものではありません」。と言うセリフは無意味です。初めから怪しいのです。

 飽くまで目の前のお客様を相手に演技を見せて行きたいと考えるなら、実演することに最大の価値を作り上げて、少数のお客様を対象に自分のマジックを見せなければいけません。当然対象は少数のお客様ですから、そのお客様がマジックを見たことで優越と満足を得るように演出しなければなりません。

 世の中がどんどん発展して行っても、必ず原点の芸能は残ります。テレビが発展しても、それがネットに変わって行っても、実演は失われることはありません。それを「古い」だの「進歩がない」だの言うことは見当違いです。いつの時代でも、物事が発展してゆく過程で振り落とされて、捨てられて行く中に「貴重品」があります。

 捨てられた時には、その希少性が理解されないない場合が多いのですが、数十年経って眺めてみると、捨て去った部分にこそものの本質があったりします。つまり実演で生きて行きたいと望む人は、その振り落とされた希少価値に気付いている人たちなのです。

 方や、新しい時代に乗って先に進む人たちは、未知なるものが輝かしい成功につながると信じて、千に一つの賭けに出ているのです。どっちがいい、どっちが優れているなどとは言えません。生き方が違うのです。

明日はそこを掘り下げてお話ししましょう。

続く