手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

不思議を結末にしない

不思議を結末にしない

 

 先日(7日)にマジックフォーラムがあって、ディスカッションのお終いに、一般質問を受けました。ある若いマジシャンが、「そもそもプロと言うものは」と言う本を仲間からもらったそうです。

 「そもプロに書かれている中で興味があったのは『自分のショウを開催しなさい』。と言うところで、『60分、90分とショウをするには、いつもやっている演技だけでは足らなくなるから、必然的に新しいことを勉強するようになるし、10分、20分と言う演技をするのとのでは演じ方も違う。演技全体を把握した上で、広い視野で内容を考えなければならなくなるから、とても勉強になる』。と、書かれてあったのですが、そのことを少し話てください」。

 そもプロは、連載されてからもう20年以上になろうと言うのに、未だに書かれている内容を質問されたり、古本がそこそこの値段で取引されていて、ようやく手に入れた若いマジシャンが本を持ってきて、私にサインを求めてくる人が少なからずいます。有難いと思うと同時に、物を書くと言うことは一生書いたことに責任を負わなければならないんだと言う宿命を再認識させられます。

 この時、私はこう話しました。「自分で会をするとなると、ただマジックを見せればいいとか、幾つかマジックをつなげて演じればそれでいいと言うことでは済まなくなります。むしろ、マジックの不思議で人の興味を引っ張ろうとしても、それだけではどうにもならないものがあって、いくつもの不思議を羅列しただけではお客様はすぐに飽きてしまいます。

 多くのマジシャンは、『お客様は不思議が好きだ』。と思い込んでいて、それならばと、これでもかと言うほどマジックを並べて見せようとしますが、実際には、一般のお客様は不思議に殆ど興味がありません。

 不思議が見たくて見たくて、不思議を常に求めているお客さんと言うのは実は少ないのです。先ずこのことを知っておかなければいけません。そこが分からないまま、マジックを見せ続けるマジシャンが余りに多いためにマジシャンは一般客のファンを作れないのです。

 カード当てをするんでも、あれこれカードをいじって、最終的に相手の選んだカードが出て来た時に、『はいこれがあなたの選んだカードですね』。と言って見せて終わったのでは、それはマジシャンがマジックに成功したことでしかなく、マジシャンの手柄であり、見ている観客には何も手に入らないのです。

 歌でも芝居でもいい芸能を見たなら心に刺さります。生涯忘れられない感動を覚えます。それに対してマジックはマジシャンの成功で終わってしまうのです。マジシャンにとっては気持ちのいいことではあっても、お客様にしたら、マジシャンに自慢されて終わってしまうのです。10分20分の演技なら、お客様も黙って見ていますが、60分90分と続くとこうした演技はつらくなってきます。お客さんに提供するものを間違えているのです」。

 ここまで話すと、隣に座っているボナ植木が「そうそう、ただ単純にカードが当たったと言うだけで、終わらせてしまうと、お客さんは感動しないんだよ。当たった後、一言メッセージが必要なんだ。例えば、『このマジックは亡くなった母が好きなマジックだった』。とかね、何かお客さんとつながる話がないと、不思議を見せただけじゃ受けないんだ」。

 「まさにそう。不思議を結論にしないことです。勿論、マジシャンがマジックを演じることは絶対必要ですよ。そして、質の高いマジックを提供することも必要。だけど、現象をむき出しに並べて、不思議だけで演技を構成しようとするのは間違いです。

 カードが当たったとしても、それを『どうです当たったでしょう』。と言ってしまうと、観客は自慢を見せられたようで、すぐに冷めてしまうのです。それがアマチュアの演技ならいいですよ。好きで見せているんですから、どんなマジックだってかまわない。でも、この道で生きて行こうとするなら、不思議を羅列しただけでは観客の心に届かないことを知らないといけません。

 私が、自分の会を開いて、60分でも90分でも自分のマジックショウをしなさい。と言うのは、長くやればやるほど、不思議なだけではショウが出来ないことが分かるからです。

 実際、多くの観客は不思議を求めてはいないんです。無論不思議は誰でも興味がありますよ。でも、たくさんの不思議はいらないんです。そんなことよりも、洒落た会話だとか、面白い話だとか、心に響く話など、いろいろなものがトータルにあって初めてお客様は満足するのです」。

 と伝えました。多くのお客様は不思議を求めてはいない。と言うことを言った時、質問者は少なからず意外な表情をしていました。

 又。マジックの中に、身近なメッセージを挿入する、と言うボナ植木の考え方は、まさにこの道で生きて行く上でとても大切なことで、身近な話が、人の共感を生み、興味を倍増させるのです。このテクニックはいわば料理人の隠し味と同じで、それを駆使できる人が売れているマジシャンです。

 私のブログにたびたび出てくる、マギー司郎ボナ植木は、いずれも、不思議を少しすらしたところに結末を作っています。それがあるからこの道で長く生きて来れたのです。

 不思議を結末にしないと言う考え方はまさに手妻も同じなのです。和傘を出しても、それをあえてアピールしないで、その後に小さな振りを付けます。その振りの中で傘を持った人物を演じる所に趣向を加えます。この趣向を見せることが、傘を出した不思議を忘れさせるのです。不思議をむき出しにして見せると、お客様はタネの詮索をします。それだと、お客様とマジシャンは敵対してしまいます。これは一番悪い関係になります。

 一見、振りを加味すると言うことは、マジックにとってはマイナス効果のようですが、実は、手妻と言う芸を長く続けて行くには、こうした所作が必要なのです。所作でお客様の気持ちと繋がっているのです。さて若いマジシャンは私の話を理解したでしょうか。そこが分かるには大分時間がかかるかも知れません。

続く