手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初音ミケ 11

初音ミケ 11

 

 毎週日曜日、朝9時30分きっちりにミケはやって来るようになりました。このところ気温が上がって来て、冷房を入れる日が増え、一階ドアの空気窓は開けることも少なくなりました。それでも午前中、掃除の時間に窓を開けています。この時間を狙ってミケはやって来ます。

 ミケはドアの前でお座りをして、「二ャァ」と鳴きます。「おう、ミケか」。「美佐子姉さん引越ししちゃったね」。「あぁ、先月に挨拶して出て行ったよ、矢張り山形に帰ったようだよ」。「あたしも一緒に行こうかどうしようか迷ったんだ。サクランボの果樹園と、畑があるよって言われて、そんなところで生活して見たいって思ったわ。けども、オクゲがどうしても今の家を離れるのが嫌だって言うから仕方ない。諦めたの」。「まぁ、そうだろうね。オクゲは今の家からは離れられないだろう」。「うん、オクゲは家の奥さんに愛されているから」。

 「ミケだって奥さんに愛されているんじゃないのか」。ミケは右手の先を舐めながら、「あたしはそうでもない。だって、あたしはオクゲみたいにべったり懐いたりしないもの。あまり奧さんに寄っても行かないし、家にいるときは、大概箪笥の上で寝ていることが多いし」。

  「オクゲとは上手く行っているの?」。「うん、あの猫はいい猫よ。とっても優しいもの。寝る時はいつも猫ハウスで一緒に寝ているの。寝ているときでも気が付くと、あたしの体を舐めてくれているのよ。あたしは生まれてこの方、こんなに平和で、みんなに愛されて生活したことはなかったもの」。ミケは左の手を丹念に舐めながら、

 「野良の時には、水をかけられたり、石を投げられたり、先輩猫にエサを取られたり、毎日危ない思いをしていたわ。ただ一人、美佐子姉さんだけが毎晩餌を用意してくれて、食べているときに頭を撫ででくれたの。嬉しかったわ」。

 「多分月末に新しい人が引っ越してくるよ」。「本当?。その人は猫好きかなぁ」。「さぁ、わからない。でも学生さんだよ。女性の」。「会ったの?」。「うん、見学に来ていたよ。部屋はフローリングで奇麗だし、日当たりはいいし、静かで、濡れ縁があって、小さな庭まで付いているからすぐに気に入ったようだよ」。「学生さんかぁ、猫が好きだといいな」。「ロイクーに先を越されないように注意しないといけないね」。「そうなの、あたしが週一日しか来れないから、その間に新しい主人に取り入って自分の縄張りにされやしないかと気が気じゃぁなくて」。

 「だけど、お前はもう飼い主がいるんだから、別にこのアパートを手放してもいいじゃないか」。「駄目よ。先生は気が付かないと思うけど、このアパートは猫にとっては最高の場所よ。これ以上の住処はないのよ。車は通らないし、先生の家の影に隠れているから、人目につかない。植え込みなんかもあって、猫の隠れ家にはもってこいだし、日当たりがいいから、屋根の上で一日中昼寝をしていられるわ。しかも美佐子姉さんが20年も暮らしていて、毎日餌をくれたんだもの、最高の家よ。あたしの一家一族は何代もここで育ったのよ。これだけの家は手放せないわ」。

 「いや、そうかも知れないけど、お前はもうオクゲの家に入ってしまっているんだから、用はないじゃないか」。「とんでもないわ、この先身より頼りのない猫が出て来た時に、この場を譲ってあげようと思っているの。猫によっては、交通事故で足が不自由になったり、猫同士の喧嘩で傷を負ったりするものがいるから、このアパートでゆっくり休んで傷を治したらいいのよ。そのための場所と考えているの」。

 「養生所かぁ。ミケは偉いねぇ、いつでも周りの猫のことを考えているんだ。杉並区の区長に推薦したいくらいだね」。「役職なんていらないわ、役職や、収入で人を助けるのは善意でも何でもない。そんな人たちは、収入になりさえすれば必ず反対のことをするわ。あたしだって、好き好んで猫を助けているわけじゃぁないの。あたしがやらなけりゃ仲間の猫が死んじゃうからやっているだけよ。まぁ、この家は体の不自由な猫や、身寄りのない子猫のための隠れ家に使いたいの。野良は一歩間違えればすぐに食べ物にも困る生活に落ちるからね。あたしも、母親もそうだったでしょう?」。

 長話をしたミケはまたパトロールに出かけました。

 すると、入れ替わりに黒い猫ががすり抜けて行きました。ロイクーです。どうもロイクーはミケの様子を隠れて見ていたようです。やはりロイクーはこのアパートを狙っているのでしょう。ロイクーは全く人に懐きません。餌をくれる人にだけ愛くるしい声を出してすり寄ってきます。餌を食べながらでもいつでも周りをきょろきょろして、落ち着きがありません。

 ロイクーは裏のアパートに行きましたが、まだ誰も住んではいないため、部屋は開きません。美佐子さんが猫のために濡れ縁に猫用の皿を残して行ってくれました。多分、後に引っ越してきた人が気付いたら、うまくすると餌をくれるかもしれません。美佐子さんの優しい配慮です。

 でも今は、数日前の雨で皿の中は雨水が溜まっています。ロイクーは濡れ縁に近づき、雨水を飲んでいます。しばらく庭をうろうろして、やがて去って行きました。

 

 月末になって、大学生が引っ越してきました。小柄な女性です。晩に両親と思しき人と、お兄さんと思しき人がやって来て、一緒に食事をしていました。ご両親は近所を回って、菓子を配っていました。今どき珍しいくらいに律儀な人です。私の家まで来て挨拶をされました。やはり、娘一人で暮らすのは親としても心配なのでしょう。そうそう、美佐子さんが引っ越して来た時もそんな感じでした。あれから20年経ってまた振り出しに帰ったのです。

 お兄さんがサッシを開けると、「あれ、こんなところに猫がいるよ」。濡れ縁にちゃっかりロイクーが座っています。私は、「しまった、ロイクーに先を越された」と残念に思いました。私が早くに気付けばロイクーを追い払っていたのです。お兄さんは、家族パーティーで食べていた唐揚げを千切って、ロイクーに与えました。ロイクーにすればいきなりご馳走に巡り合えて大喜びで、鶏をぱくつきました。すると、お母さんが「物をやると居ついてしまうから、よした方がいいよ」。と言います。お父さんも、「そうだ、懐かれて家の中にでも入ってきたら、部屋が汚れるぞ」。と言って、サッシをぴたりと占めてしまいました。ロイクーは締出されはしましたが、これで縁は付きました。また明日の晩でも顔出しをしようと決めて去って行きました。

続く