手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

円、園、元、

円、園、元、

 

 日本の通貨は円を単位にしています。江戸時代は小判の一両を単位としていました。一両は10万円ほどの価値がありました(江戸期の270年間に、粗悪な小判も出ましたので、価値が半減した時代もありました。また、物の値段も変わりましたが、極端な価格の変動はなかったのです)。

 両と言うのはそもそもが重さの単位で、金17.75gが一両です。これは古い中国の基準を基にしたもので、5匁、ないし4.5匁が一両です。

 これが幕末期になって、欧米と貿易をするようになると、日本の金と銀の交換比率が、西洋と大きく違うため、西洋の銀貨を持って来て、日本の金貨と交換するだけで、西洋は莫大な収入を得てしまうことを知り、幕府は急遽、金の流出を防ぐために一両を三分の一のサイズに造り替えます。

 お陰で対外貿易はうまく行きましたが、国内の物価がとんでもなく高騰しました。但し、何かと物入りな幕府にとっては幸いでした。改鋳(かいちゅう=貨幣の純度を下げて粗悪な貨幣を作ること)によって幕府は思いがけない税収を手に入れ、財政を維持することが出来ました。

 改鋳により、万延小判と言う小さな小判が出回りました。まるで鳳神社の熊手にぶら下がっているような小判です。当時の日本人はこの小判を見て、幕府の権威の失墜をひしひしと感じたことでしょう。一両の価格は三分の一に下落します。従って、明治を迎えた時の一両の価値は約3万円でした。

 

 話は長くなりましたが、一両3万円の価値が、そのまま一円になったわけです。江戸時代の金銀銅の相場は複雑で、それぞれに市(いち)が立ち、価格が毎日変わりました。江戸時代は常に通貨が不足していて、日々の買い物すら簡単には出来ませんでした。そのため、ほとんどの庶民も侍も付け買いをして、支払いは、盆と正月に一遍に支払っていました。

 当然盆と正月は貨幣が大きく動きますので、銭も金貨も大量に市中に出回り、貨幣価値は下がります。庶民は相場の高い時期に銭を借り、相場の低い時期に支払いをしますので、常に損をします。

 

 明治になって、日本が通貨を円と定めたことは大きな進歩でした、貨幣が金相場によってサイズが変わることがなく、また金の含有量によって価格が左右されることがなく、季節によって価格が動くこともなくなったのです。国が円の価値を保障すると言う制度に変わります。

 日本が日清戦争で勝利し、賠償金を得たときに、賠償額は、中国の貨幣で二億両(両はテールと呼ばれていました)でした。二億両はとんでもない額で、当時の円に換えると3億円です。明治時代の日本の国家予算が8000万円でしたから、国家予算の約4倍近い賠償金を取ったことになります。

 日本はとてつもない額の賠償金を得て、八幡製鉄所を作ったり、軍艦を買ったり、大きく飛躍します。方や中国は国家が衰亡し、やがて清朝は滅んで行きます。

 

 この日清戦争を機に、アジア各国でも通貨を量目ではなく、国家の信用に切り替えるようになります。日本の円に対して、中国は元(イェン)、朝鮮は園(ウォン)と言う名称を使うようになります。それぞれ意味は丸いと言う意味です。

 お金が丸いと言うのは今では当たり前のことですが、古い中国の金貨を見ると、餃子のような形をしたものもありますから、丸い、平たい金貨と言うのは当時は新鮮に見えたのでしょう。

 日本の円も、江戸期から明治期まではイェンと発音していたようです。中国、朝鮮とほぼ同じ発音だったのでしょう。今でも日本のお札には、円をYENと表記していますので、正式にはイェンと発音すべきなのでしょう。

 但し、私は今までどこの地方の人の発音を聞いていても、円をイェンと発音する人を聞いたことがありません。どなたか、イェンと発音する人をご存知の方がいらしたらご一報ください。

 一両が一円、その値打ちが今の三万円の価値があったとして、江戸時代にたくさん出回っていた一文銭は、その後どうなったのかと言うと、一枚一厘(りん)として使っていたようです。一厘は一円の千分の一の価値で、最低単価です。銅貨が不足していたために明治末期まで一文を一厘として使っていたのです。当然、蕎麦うどん、風呂代などの支払いは、明治末までも一文銭で支払っていたようです。

 このことは何でもないことのようですが、明治の人が日常の支払いをするのにまだ江戸時代の貨幣で済ませていたと言うことが、江戸から明治になったことがいきなり、なにもかも変化したわけではなく、かなり後までも、江戸が生活に残っていたことを感じさせ、興味深いと思います。

 

 松旭斎天一が、明治21年、東京に進出して来て、文楽座で55日間の興行をした時に、当時桟敷席だった劇場に一部椅子席を設けました。この椅子席が一席一円だったそうです。明治21年ですから、維新当時、三万円の価値のあった一円も、二万五千円くらいに下落していたかも知れませんが。恐らく奇術の興行としては最高価格だったでしょう。

 そんな高額の興行でも、新聞などで話題になり、一目見ようと東京中の高額所得者が集まり、文楽座の前は馬車に乗った紳士淑女でごった返したと言います。浅草の芝居町ではめったに見られない光景だったことでしょう。

 それまで大阪に住んでいた天一は、この成功を機に東京に住まいを移す決意をします。

 ある日人力車に乗って、東京中の家を探し回っていると、日本橋薬研堀に蔵の二つ付いた大きな屋敷が売りに出ています。天一はこれを気に入り、即座に家主である表通りの呉服屋に入って、家を買いたいと言うと、手代が出て来て、天一を冷かしだと思ったのか、「側近で700円なら売ってもいい」。と言います。700円は1千8百万円です。すると天一は、懐から700円を出して。「それならこれで売ってくれ」と言ったそうです。

 まさか本当に700円持っているとは知らず、手代は慌てて、「いや、700円と言ったのは、家の値段で、土地は別です」。などと言い訳をします。余りに要領を得ない手代に腹を立てて、天一は、「そうなら家代だ」、と言って、700円を渡し帰ってしまいます。ところが翌日には職人を入れて、買ったばかりの家をすべて壊してしまいます。この豪胆さに慌てた家主は、天一の旅館を訪ね、丁重に謝りを入れます。然し、天一は全く咎め立てもせず、さっさと家を新築して豪壮な二階家を建てました。

 この天一薬研堀の二階家は、当時日本の芸人で最も贅沢な家に住んでいると言われ、評判になった家でした。文楽座の興行はよほどに儲かったのでしょう。

続く