手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

踊り をどるなら 2

踊り をどるなら 2

 

 踊りはフリガナを振ると「おどり」と書きますが、明治以前は、「をどり」と表記しました。単語の頭に「を」を使うのは今では不自然に感じますが、実際はそう使いました。発音も、おどりを「うぉどり」と発音していたのでしょう。50音の発音の中に、今では使われていない発音があったのです。顕著なのは、や行と、わ行です。や行は今では、や、ゆ、よ、の三つしか残っていませんが、恐らく、間に、yぃ、yぇ、と発音するものがあったはずです。その頃の発音は、いゃ、いぃ、いゅ、いぇ、いょ、と言っていたのではないかと思います。

 実際に、「いぇ」は今も残されていて、「へ」と表記されます。「東京へ行く」、と言うときの「へ」です。これも、明治以前の人が発音すると、「東京いぇ行く」と発音していたのでしょう。今でも私のところでは、「へ」は、「いぇ」と発音しています。金輪のセリフ「上から切り込み、下いぇと抜ける」。と発音します。この辺りをきっちり発音仕分けると、手妻がより古風なものに感じられます。

 日本の通貨の単位は円ですが、これも明治以前は、「いぇん」と発音していたようです。アルファベット表記ではYENと書きますから。江戸時代の日本人が円と言うときに、海外の人には「いぇん」と聞こえたのでしょう。九州の佐賀県や、福岡県あたりの人が、鉛筆を「いぇんぴつ」と発音したのを聞いたことがあります。私はこれを単なる訛りかと思っていましたが、発音としては、「いぇんぴつ」のほうが正しいのでしょう。

 話は妙なことにこだわって、なかなか「をどり」の核心に行きません。でももう少し話させて下さい。わ行は、一番残っていない行ですが、これも恐らく。ヴぁ、ヴぃ、ヴぅ、ヴぇ、ヴぉ、という発音があったはずです。英語で言う下唇を噛んで発音するw発音に近いものです。

 今にち、「ヴゎ」は下唇をかまずにそのまま「わ」と発音して残っています。「ヴぃ」は古くは、「ゐ」、とか「ヰ」と言った変体仮名を当てていました。古い本に変体仮名で書かれた「ゐ、ヰ」が出て来たら、それは本来「い」ではなく、「ヴぃ」と発音していたのです。同様に、「ヴぇ」は「ゑ」と書いていたようです。今変体仮名はあまり使いませんが、今から150年くらい前までは、厳密に発音を区別していたのだと思います。

 そして「ヴぉ」です。「ヴぉ」は「を」と表記します。発音は今では「お」も「を」も同じになってしまいましたが、人によっては今でも厳密に「うぉ」と発音する人がいます。私らも「を」は丁寧に「うぉ」と発音するようにしています。

 

 私は、「おどり」をなぜ「をどり」と発音するのかについて、まったく私見ですが考えがあります。つまり、冒頭に「を」の字が来ると、跳ねた発音になります。この跳ねた音と言うのが、踊りの原点なのではないかと思います。

 実際文章や単語で、「を」の字が出て来ると、そこに喚起を呼び起こす場合が多いように思います。アクセントと考えてもよいと思います。何らかの注目を集めるときに「を」が使われます。つまりをは、喚起を呼び起こし、注目を集めて、跳ねた音が「を」です。

 踊りは、をどり、をどる、をどれや、と、「を」を基に形作って行きますので、その基となる「を」を、注目とか、喚起とかの意味を嵌めて考えたなら、「をどり」の意味は伝わるのではないかと思います。

 

 ただし、能の世界では踊りとは言わず、舞と言います。日本舞踊でも京舞のような古い流派では、踊りとは言わずに舞を舞うと言います。その違いは私にはわかりませんが、舞うと言う言葉に対して、踊ると言うのは俗に感じるのかも知れません。

 日本の芸能は、伝統的に、あとから出て来た芸能を軽く見る風習があります。暗黙の身分制度と言っていいかもしれません。能役者は、歌舞伎役者を軽く見て、歌舞伎役者は新劇役者を軽く見ます。新劇役者は映画俳優を軽く見て、映画俳優はテレビ俳優を軽く見ます。テレビ俳優は、youtuberを軽んじます。なぜそうするのかわかりませんが、人は他人を差別したいのでしょう。差別による優越が、曖昧模糊とした芸能の世界で唯一のよりどころなのかもしれません。

 日本舞踊も、舞を舞う人と、踊りを踊る人を区別して考えているのでしょう。然し、いつの時代でもそうですが、確実に、古い時代の人は勢力を失って行き、新しく生まれた人たちが活躍して行きます。そのことは、今のテレビ界とyoutube界を見比べたなら明らかです。今やテレビは風前の灯火です。

 一つの社会は、発展してゆく過程で、理想的な形式を考え出します。ある時期、形式によって、その社会は大きな発展をしますが、いつしか、形式に縛られるようになり、身動きが取れなくなって行きます。自分たちにとって都合のいいやり方が徐々にその社会が形骸化して行って、結果として現実社会を反映できなくなって行きます。そうなると一つの社会の衰退がはじまります。

 然し、確立された社会がみすみす崩れ去って行くのは勿体ない話です。価値のないものなら消えても仕方のないことですが、それが、日本人に、或いは世界の人に多大な影響を与えるものなら何とか残したいと思います。そこで、古典の形式などから、何が災いし、何が残したいものなのかを考えて、残せるものなら残して行かなければいけません。明日は舞踊を通して、古典の素晴らしさや、限界のお話をしましょう。

続く