手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 15 文楽座

天一 15 文楽

 

 さて、アメリカのノートン一座を迎え撃つジャグラー操一は、浅草猿若町にある文楽座で15日間興行しました。この文楽座は、江戸時代の芝居小屋ではありません。明治になって芝居町から中村座が鳥越に移転し、市村座が二丁町に移転し、守田座が築地に移って新富座となって行ったことで、猿若町は灯が消えたように寂しくなります。そこで、町の有志が資金を出し合って、明治18年、中心地の劇場に敗けないような立派な劇場を建設します。これが文楽座です。

 文楽座は名前の通り、文楽(人形芝居)を主として、浄瑠璃語りの芝居小屋として始めましたが、明治の中頃は文楽が不人気で、杮落し(こけらおとし=新築落成)興行ですら満員にならず、千秋楽(最終日)には、座元が夜逃げをすると言う惨憺たる成績でした。その後も看板の浄瑠璃大夫を招いて興行しますが、どれも不入り。慌てたのは出資者で、かさむ負債を何とかしなければならず、もう文楽の、伝統のと言っている場合ではなくなり、当たるものなら何でもやらなければならないと、血眼になって、新規の芸能を探すようになります。

 そうして見つけたのがジャグラー操一です。大阪で評判の西洋奇術師、彼を起用してノートン一座に対抗しようと決めたのです。折からの新富座でのノートン一座は新聞や、チラシなどを使って大宣伝を掛けています。対する文楽座も、西洋奇術に対して東洋奇術と銘打って、初日は、新富座と同じ、4月17日にぶつけて行きます。まさに東洋西洋対抗奇術合戦となり、東京の話題を独占します。これは互いに効果を上げたようで、両者とも大当たりの成績を上げます。

 

 明治21年に東京の話題をさらったノートンとはどのような人だったのでしょう。今日ワシントン・ノートンと言う人のことは全く奇術界では知られていません。ニューオリンズ生まれで、寄席演芸の世界で名前を売った芸人で、40代で引退し、カリフォルニアに農場を買い、余生を農場で送ろうと考えていたようですが、なぜか、再度チームを組むことになり、一座を興して日本にやって来たようです。この時49歳。

彼がどんなことをしたのか、チラシを見ると、

 「箱抜け」夫人を箱に入れ、紐で縛って、夫人が脱出する。現代も演じられている人体交換術でしょう。

「空中催眠」長い棒に夫人が寄りかかり、空中静止する。今日の邯鄲夢枕。

「大理石美人」石造の美人が人に変わる。人造人間でしょう。

「首切り術」自らの首を切り、机の上に置くと、目を開き、歌を歌う。

「早変わり」お客様の目の前で衣装が素早く変わる。この衣装チェンジがノートン一座の得意芸だったようです。

 こうしたイリュージョンの合間に、歌ありダンスあり、テンポの速い演出で、あっという間にショウが展開されるため、お客様は圧倒されました。いわゆるアメリカのボードビルショウですが、歌や踊りは当時の日本の観客には動きがせわしなく、あまり理解されなかったようです。然し珍しいショウですので連日満員でした。

 一方、ジャグラー操一は、

 「七つの箱」空中に大きな箱を七つ吊り、一つの箱に子供を入れ、別の箱から瞬時に出す。どこから出て来るかを観客に当てさせて、当たったら賞金を出しました。

「磁気術」これは催眠術ショウのこと。舞台に上げた観客が催眠効果で踊り出します。「帽子術」観客から帽子を借り、空中に吊り、そこから観客の声が聞こえます。読心術か、腹話術でしょうか。

「帽子からの取り出し」メリケンハットのこと。

「縄抜け」操一の得意芸。操一の体を観客に自由に結ばせて、抜け出して見せたのでしょう。後年のフーディーニの拘束衣からの脱出に近い芸かと思います。

 

 内容としては、手先のマジックや、メンタルマジックなどが含まれていて、珍しさにおいては十分珍しかったと思います。ただし、ノートンのような華麗さ、陽気さが乏しく、不思議を強調して、技の妙味を見せて行くショウになっています。

 この後、東京進出して来る天一と比べても、操一の芸は不思議ではあっても地味で、玄人(くろうと)好みです。ノートンとの勝負は、宣伝効果で世間の話題となって、知名度を上げましたが、天一が出て来るに及んでその影は薄くなって行きます。

 晩年の操一の舞台を明治38年に名古屋の御園座で、若いころの天洋(天一の又甥)が見ています。「その舞台姿はとても寂しかった」。と言っています。天洋翁いわく、「どんなに技があっても上手でも、舞台の暗い人は大成しない」。と言っています。実際その後操一は、岩手の盛岡座の楽屋で首つり自殺をして生涯を終えています。

操一は、文楽座を満杯にしました。当時の文楽座は昼興行のみでしたので、夜は、芝の寄席、恵智十に出演しました。寄席に出ているところを見ると、操一の本分は手先の芸にあったのでしょう。

 

 さて天一の出番です。大阪でジャグラー操一や、ノートン一座の成功を見るにつけ、天一はいてもたってもいられなかったでしょう。天一は、明治21年7月末に横浜に着き、横浜で一か月の興行をします。恐らく横浜、東京興行は、既に大阪の時点で交渉が進んでいたでしょう。

 ところが横浜は難なく出演できましたが、東京の劇場が決まりません。天一はどこの劇場を狙っていたのでしょうか。恐らく新富座でしょう。ところが新富座ノートン一座が大成功を収めている前から大きな難問を抱えていました。

 それは、翌年、明治22年に、新富座の近くに歌舞伎座ができると言う情報が入って来ました。総体が石造りの西洋式の劇場で、室内は3000人が収容できる、東洋最大の劇場です。そんなものが出来たなら、新富座はひとたまりもなく倒産してしまいます。そこで守田勘弥は策略を巡らして、東京の看板役者を密かに契約で抱え込みます。

 その際、歌舞伎座には出演しないと言う一文を契約に盛り込みます。そんなこととはしらない歌舞伎座側は、歌舞伎座が建てば役者は皆出たがるだろうと高を括っていました。ところが守田勘弥の策略を知って大慌てになります。

 劇場を建てても役者がいなければお手上げです。それまで勘弥との交渉などは鼻にもかけなかった歌舞伎座役員が平身低頭で、新富座参りをし始めます。勘弥とすれば「ざまぁみろ」。と言う思いだったでしょう。

 然し、この間も看板役者との契約を維持するために、新富座は毎月歌舞伎を打たなければならず、高給取りの看板役者を何人も出演させ、大きな出費を余儀なくされます。こんな時に、如何に奇術が儲かるからと言って、大看板を休ませてまで奇術の興行をするわけにはいきません。結果として天一新富座出演は決まらなかったのです。

 横浜まで来ていて、東京の劇場進出が決まらないと言うのは、天一にとっては痛恨だったでしょう。無論、浅草や両国あたりで仮設興行をすることは可能だったでしょう。然し、天一は、東京のお目見えは何としても劇場に出演したかったのです。その理由については来週申し上げましょう。

 明日は日曜日ですので、ブログは休みます。

続く