手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 14 東京進出

天一 14 東京進

 

 天一は、梅乃と明治13年に結婚し、しばらく子供が出来なかったのですが、四国を興行しているときに知り合いの漁師から勝蔵と言う子供を譲り受け養子にします。この勝蔵が後の天二で、二代目天一になります。新古文林では2歳で養子にした。と書かれていますが、実際には5歳でした。頭のいい子で、芸事の覚えもよく、すくすく育ちます。梅乃は舞台の後継ぎができると、その後は次々と子供を産んで行きます。勝蔵も、自分の子供も分け隔てなく育てたようです。

 天一を書いて行くと、天一の個性が強いため、ついつい周囲の人のことはあまり詳しく書きませんが、梅乃は天一にとって理想の女房と言えます。梅乃はしばらく天一のアシスタントをして舞台に立っています。明治20年に十字架の磔(はりつけ)の景を写真を見ると、右手側に梅乃がアコーディオンを持って並んでいます。その脇でラッパを吹いているのが天二です。梅乃は洋装で、帽子をかぶっています。珍しい写真です。天二はこの時12歳でしょうか。まだ体も小さいです。

 梅乃はこの他にも子供がいて、舞台に、子育てに大変だったでしょう。この後東京に新居を構えた後は舞台から離れ、子育てに専念しています。

 一座のマネージメントは、三越幸太郎が引き受けます。梅乃の兄です。あまり大きな体ではなかったようですが、顔が役者のような、まっすぐ鼻筋が通っていて見るからに頭のよさそうな人です。更に幸太郎は、義兄の山田恭太郎を一座に引き入れ、共に一座の事務を引き受けました。

 この時代の一座と言うと、やくざ崩れの得体のしれない興行師が事務員をしていることが多かった中で、天一一座は住友や大丸の番頭でも務まりそうな固い男(幸太郎、恭太郎)を番頭に据えています。このあたりが大きな仕事をして行く上で、信用を勝ち得る大事な決め手となります。これで一座の体制は整いました。

 

 明治20年天一は多忙を極めていました。多忙と言っても依然として、活動の中心は小屋掛けで、大阪ならば千日前に出ていました。装置も整い、一座としての実力も備わって来ましたが、道頓堀の五座には出演できません。なぜかと言えば、千日前の小屋掛けに出続けていたからです。大阪では天一は千日前の芸人と言うレッテルを張られてしまっていたのです。何とかこれを改めさせて、道頓堀に進出したいと考えていましたが果たせません。天一にとってつらい時期です。

 一方、ジャグラー操一の人気はうなぎ登りで、来年には東京進出を早々に決めます。天一は内心穏やかではありません。「一登久師匠の次は何としても自分が東京進出を果たしたい」。と考えていたものを、思いがけなくも素人上がりのジャグラー操一がしゃしゃり出て来て東京進出を果たしてしまう。許せません。天一は、明治21年に上海の興行を予定していましたが、上海などに行っている場合ではありません。なんとしても、明治21年中に東京進出を果たさなければ、世間の話題から取り残されてしまいます。天一は、ジャグラー操一の情報を知ると、即座に上海をキャンセルし、東京行きのための準備を始めます。

 

 明治21年、東京で一大西洋奇術ブームが起きます。まずアメリカからノートン一座が来日し、3月から浜町の千歳座(今の明治座)で一か月の興行をします。更に4月から築地の新富座で半月興行します。これまでも西洋奇術師は頻繁に来日していましたが、20人もの大一座が来て、東京の中心で興行すると言うのは初めてです。

 しかも場所が、千歳座と新富座です。両座は旧来の芝居町の芝居小屋から脱して、東京の中心に進出し近代的な建築物を建てていました。江戸時代は、大きな芝居小屋でも、建物は本建築を認めませんでした。興行はあくまで仮設の扱いだったのです。

 そのため、外見はきっちり建てられていても、礎石を置くことが許されないため、四五年も使っていると、建物全体が傾いてきます。しかも屋根は、板葺きでした。1000人以上も。入る大きな芝居小屋が板葺きでは、近所に火事があると、火の粉が飛んできて、簡単に屋根が燃えてしまいます。大屋根が燃え上がればすぐに大火につながり、周辺一帯は大被害にあいます。

 このため座主は度々瓦屋根を乗せることを奉行所に懇願しますが、奉行所は認めません。結局、270年間、芝居小屋は本建築は認められませんでした。このため、様々な点で芝居見物は不便を強いられます。先ず便所は、芝居小屋の裏に、別に小屋を建てて、地面に穴を掘り、大きな壺を埋め、上に板を渡して、お客様は板をまたいで用を足します。臭気はものすごく、しかも仮設の便所ですので冬は寒く尻を冷やします。そのため、金持ちは、芝居茶屋を通して、食事や用便は茶屋でするようになります。

 それが明治になっても、浅草の猿若町にあった中村座市村座守田座は江戸時代のままの経営を余儀なくされていたのです。同様に、大阪の道頓堀も、五座ある劇場はすべて、江戸時代のままで、便所は大きな壺の上で用を済ませていたのです。権威のある五座と言っても現実は前近代的なスタイルから脱却できずにいたのです。

 こうしたことは、海外から来日した大使や駐在員には不評で、日本が演劇や興行に理解を示さないことは不当だと不満をぶつけます。実際、西洋に視察に行った日本の役人は、パリでもウイーンでも、石造りの立派な劇場を見て圧倒されます。芸能に対する評価が日本と欧米では雲泥の差なのです。そこで明治5年に、興行を猿若町だけにとどめるのではなく、東京の中心に出て劇場を立ててもよいと言う許可を出します。それを待っていたかのように中心街に進出したのが千歳座や新富座です。

 新富座は当時、日本一の劇場で、天井にはシャンデリアが飾られ、ガスランプが各所に配置され、客席も廊下も昼のように明るく照らされています。ロビーも廊下も赤じゅうたんが敷かれ、客席も半分は椅子席になっていました。客席数は1500人。当時としては最新式の劇場です。

 これを建てたのは、守田座の座主、守田勘弥です。実業家としての手腕のある守田勘弥は、いち早く出資者を集め、京橋に劇場を建てます。ところが三年もしないうちにもらい火で焼失します。普通なら座主としても経営者としても命脈を終えてしまいますが、勘弥はへこたれません。

 再度出資者を募って、更に豪華な劇場を築地新富町に建てます。これが新富座です。新富座は日本中の話題を集め順調に興行成績を上げますが、何分京橋の火災が大きな負債になっています。なんとしても興行を当て続けなければいけません。然し、明治の中頃になると歌舞伎は不入りが目立つようになります。西洋演劇や、新派、新劇が出て来て、旧劇(歌舞伎)は圧されて行きます。ここで大きく当てなければ新富座自体の存続が危うくなります。そこで窮余の一策としてノートン一座を招いたわけです。

 それを迎え撃つかのように、ジャグラー操が、浅草猿若町にできた文楽座で興行をします。西洋と東洋の奇術師の戦いが始まります。東京の話題は奇術に集中しました。

続く