手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

千社札の会

千社札の会

 

 まだ私が20代の頃、千社札(せんじゃふだ)の会が日本各地で盛んに催されていました。千社札と言うのは、神社やお寺の山門や柱に貼ってある紙で、寺社に来た証として参拝客が名刺代わりに名前を記して貼ったものです。

 サイズは6cmx17㎝くらいで、薄い和紙で出来ています。和紙に枠取りがしてあり、その中に名前や店の屋号などを書き、木版で刷り上げます。この時の名前や店の屋号は、勘亭流の文字の一種で、ビラ字と言う文字で書きます。

 ビラ字と言うのは、太く、ふっくらとした文字で、紙の余白を作らないように、びっしり書き込むのが特徴です。落語のチラシであるとか、相撲の番付であるとか、歌舞伎のビラなどにも使われています。

 厳密には、歌舞伎の文字と、相撲の文字、落語の文字は違うのですが、広く捉えると皆同じルーツになります。この千社札を専門に作る職人がいます。

 

 かつては下谷に、関岡扇令(せきおかせんれい=二代目摺師、現在は息子さんが彫師となって、同名を名乗っています)先生と言う人がいらして、私も千社札を作ってもらうときには関岡先生を尋ねました。

 私の知る関岡先生は摺師(すりし)でした。話がややこしくて何のことかお判りになりにくいと思いますので、ここで注釈を致しますが、この先生は、浮世絵の仕事をしている人たちです。浮世絵は、絵師と彫師(ほりし)、摺師の三つの職人によって作品が作られて行きます。

 先ず、絵師によって作品が描かれます。広重、北斎などはみな絵師です。絵師が描いた絵は、彫師の工房に持ち込まれます。彫師は、絵師の絵を見て、何色の版を起こすか判断を立てます。浮世絵は、作品によって、17版とか、25版とか、色数によってその数だけ版木を使います。その色の版をすべて彫りぬくのが摺師の技です。

 その何十も作られた版は、摺師の工房に届けられ、摺師は、指定された色を再現しつつ、一枚の紙に次々に色を重ねて行きます。こうして、色鮮やかな浮世絵が作られて行きます。

 その浮世絵師と千社札の摺師とどんな関係があるんだ。と言うことになります。つまり、千社札の製作は、浮世絵師の副業のようなもので。お寺参りやお宮参りをするときに、江戸の庶民は、千社札を作って各寺社に貼って帰りました。

 この遊びは一歩間違えると歴史的な建造物に落書きをしたことになります。そこで、お寺さんや神社さんに許可を得て、貼ってよい場所に貼らせてもらうのです。和紙で刷られた千社札はふのりを塗って柱などに貼ることは許されます。然し、シールで作った千社札は許可は出ません。シールは脂(やに)のような薬品がこびりついて柱を汚すため、貼ってはいけないのです。

 

 さて江戸時代に千社札を張る遊びは庶民の間で随分はやり、多くの人がマイ千社札を持つようになります。そうなると、千社札の技術も向上し、単なるお札だったものが、芸術的なレベルを競うようになります。ただ名前を書いただけではなく、そこに絵を描いて印象付けようとします。自身が魚屋であれば、鯛や鰹の絵を描いたり。浅草からやって来たなら、浅草の雷門を描いたりします。

 わずか6cmx17㎝の小さな紙に、趣向を凝らして小宇宙をこしらえます。金持ちになると、その絵を広重に描かせたり、歌麿に描かせたりもします。そこまで凝った千社札を作ると、田舎のお寺や神社に貼るだけでは惜しいと言うことになって、連(連=愛好家のクラブ)を作って、千社札の交換会を開くようになります。

 これは、江戸の名のある座敷を借り切って、年に数回、連に加盟している人が集まり、千社札を無料で交換し合います。

 こうした催しが高じて来ると、小さな千社札では物足りないと言うことになって、二枠続きとか三つ枠続きと言った、二倍三倍のサイズの千社札を作り、そこへ一流浮世絵師に美人画や、景色などを描かせるようになります。そうなるともはやこれは全く浮世絵となってしまい、人気のものは奪い合いになります。

 然し、大枠の千社札はルールをはみ出しています。やはり千社札千社札一枚の中に世界を描き込むことが本来です。金に飽かして作ったお札は、奥ゆかしい秘かな趣味ではなくなって行きます。

 江戸の末期から明治にかけての千社札の交換会は大変な熱気で大流行しました。然し、浮世絵が下火になるにつれ、千社札の交換会も開かれなくなって行きます。

 

 今日、江戸や明治時代の描かれた千社札で、出来のいいものはマニアの間では垂涎の的で、浮世絵などとは違って、元々が売っていたものではなく、伝手でしか入手できないものですから、とんでもない価値が付きます。新宿末広亭の大旦那、北村幾夫さんが趣味でこれを集めていますが、すごい作品がたくさんあります。

 私の名前のお札も一枚お渡ししましたが、職業柄、昔の噺家や芸人の千社札などもあり、そのコレクションは羨ましく思います。

 

 話は戻って、私が20代の頃、四国の高松で関岡先生が指導する千社札の会があって、私は何度かそこに参加しました。高松の会では、ビラ字の書き方、版木の彫り方、摺り方と言った指導をされていて、実際自分たちでお札を作っていました。私は集めることは好きでしたが、製作はしませんでした。

 私は岡山県香川県にお客様が多く、そのご縁で千社札の会に参加したわけです。その時の交換したお札が今も残っています。それをたまたま見つけ出しました。

 一枚一枚和紙に刷り込んであるもので、作業はまるで浮世絵を作るのと同じ工程です。版木は桜の木を使い、細部まで彫り抜きます。その桜の版木は、今も保存しています。依頼があれば摺師さんのところに持って行き、何百枚も千社札を摺ることが出来ます。

 お札は、和紙ですので風合いがざらざらしています。指で表面を触ってみると、枠構えや名前のところなどはかなり強く版を押してありますので、紙がへこんでいます。名前の周辺は、青い絵の具を使っていて、40年経ってもきれいに発色しています。指で触っているだけでも楽しかったころの思いを感じます。こんないい文化に接していられた時期があったことを幸せに思います。

続く