手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

謎知り染めて それからが 4

謎知り染めて それからが 4

 

 さて、この話をまとめなくてはいけません。私の人生の後半は、弟子を育てることに費やしました。それは今も続いています。弟子に給料を支払って、私の仕事を手伝わせ、食事の面倒を見て、なおかつ、手妻を教えて来ました。

 一人が育つとまた一人やって来ます。中には途中でやめて行く者もいます。いろいろな人がいても当然です。

 すべての弟子が無事に育つわけではありません。自身の人生の中で一人でも、まともな人が育ったなら成功なのです。そのことは自分の子供の成長を思えばよくわかるでしょう。

 しかし子供ならせいぜい一人か二人を育て上げれば、残りの人生は子育てから解放されます。然し、私はいまだ人を育て続けなければなりません。なぜ人を育てなければならないかと言えば、私の前半生は、手妻がいまにも消えて行く状態だったからです。

 手妻をどう残す、どう生かすは、私にとっての人生のテーマだったのです。この私の活動に、多くの奇術愛好家も協力してくださいました。国の援助もいただいています。30代の頃を思えば、決して泥沼の状況ではありません。

 それでも残りの人生を思えば、この先何人人を育てられるのかわかりません。

 幸いに手妻の演じ手は少し増えて来ましたので、この先いきなり手妻が消えることはないと思います。然し、そう思って安心していると、マジック界全体が大きく規模を狭めている現状に当面しています。

 このことはコロナのためではありません。実はこの10年、マジック界は急激に衰退しています。SAMもIBMも大きく会員数を減らしています。

 日本国内でも、一泊お泊り付きの温泉コンベンションがどんどん減っています。アマチュアのマジッククラブも会員数を減らしています。それにつれてマジックメーカーやショップの数も減っています。

 そんな状況を見ていると、このままではいけないことは明らかです。優れたマジシャンを世間に紹介して公演を打って行かなければいけません。そして次のマジシャンを育てなければいけません。今までコンベンションが担っていたことを私個人が引き受けなければならくなったのです。

 この先は少し楽になるかと思えば、話は逆で、仕事の負担が増えるばかりです。然し、これを苦しい辛いと思ってはいけません。自分が選んだ人生です。これもまた楽しいと思って活動しなければいけません。

 

 前置きが長くなりましたが、来年から、東京と大阪のマジックセッションでコンテストをします。コンテストをすれば人は育つのか、と言えばそれは違います。

 わずか3万円くらいの貧乏臭い賞金を出して、賞状を与えて、それで人が育つわげではないことは明らかです。そうではないのです。私がコンテストを催す目的は大きく3つあります。

 

 1、プロを育てたい。

 いいプロが育たない限り、一般客はマジックに注目をしません。後を追いかける若い人たちもマジックの何が優れた芸能で、どう生きて行ったらいいのかがわかりません。旗を振って前に進むマジシャンが必要なのです。そうした人を一人でも増やして、出演の場を提供したいのです。

 

 2、純粋にマジックを愛する人を育てたい。

 プロになる必要はありません。純粋にマジックが好きな人がいて、その人が優れた演技をしたなら、それを認めなければいけません。

 そして、そうした人が、入賞したのち、サラリーマンになったり、個人事業主になったなら、マジック界に奉仕をして欲しいのです。何かをしてもらうことばかり当てにしていてはいけません。

 サンタクロースの大きな袋が常に満杯なのは、サンタクロースが偉いからではなく、サンタクロースのプレゼントを補充してくれる人が背後に大勢いるからです。早くそれを知って、積極的にマジックの活動の一部を引き受けてくれる人を育てなければいけません。マジック界で一番遅れている考えがこれです。与える立場の貴さを教えなければいけません。

 

 3、観客を育てたい。

 一部の愛好家が集まって、温泉場やホテルの中でマジックコンベンションをしていても、実際、マジックを見たいと思う観客は増えません。コンベンションも大切ですが、一般客に優れたマジックを提供することはもっと大切です。

 一般客を対象として、程度の高いマジックショウを定期的に提供している団体はいくつあるでしょう。現実には、そこで集めた一般局の数が、マジック界の支持者の数なのです。

 マジック界の観客が少ない、スポンサーが少ないと言うなら、その原因はマジック愛好家の日々の活動の仕方に問題があります。自分たちが外に向かって活動していないのです。私はマジックセッションも、コンテストも、一般に公開して、マジックの楽しさを提供することで観客を増やしたいのです。

 

 以上の3つのことをコンテストを通じて、マジック愛好家に伝えて行きたいのです。仮にコンテスタントが、スポンサーのパーティーに招かれて演技をするようなことになったときに、演技内容の例え半分でも、そこで見せられるようでなければ彼らが存在している価値はないはずです。

 「こんな所ではできない」「暗くしないと出来ない」などと言っていて、どうしてスポンサーを集められますか。分り合った、一部の仲間の間の中でチャンピオンになったとして、それで本当に成功したことになりますか。

 今の自身の手順を考えるときに、演技に汎用性があるか否かは常に考えていなければならないことです。

 

 かつてマーカテンドーに質問したことがあります。「君はメインのカード手順を年会何回演じているの?」すると彼は「一回か二回」「どこで演じたの?」「コンベンションに呼ばれた時だけ」。

 彼の晩年は仕事もなく、とても気の毒な状況でした。しかしなぜ仕事がないかは明らかです。メイン手順が年に一、二度しか見せられないなら、彼は生きていながら死んだも同じではないですか。そうなら、彼を持ち上げて集まってくるアマチュアから一度決別して、本気になって生きて行くための演技を作らなければ前には進めなかったはずです。

 然し、彼はそれが出来ませんでした。

 そして、その後、第二第三のマーカテンドーが出るに及んで、私は、マジック界はこのままではいけないと決意を固めたのです。マジシャンはもっと勇気を持って前に出なければいけないのです。分り合った仲間の中で生きて行くことなど空しいことだと知らなければいけないのです。私はセッションを通して、このことを伝え続けて行こうと思います。

謎知り染めて それからが 終わり