手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

歴代の陰気な作曲家

歴代の陰気な作曲家

 

 歴史上もっとも陰気な作曲家は誰かと見ると、第一位はショスタコーヴィチ。第二位はブラームス。第三位はチャイコフスキーでしょう。第四位にシベリウスか。

 ショスタコーヴィチの暗さは以前書きました。但し、多分にその暗さは周囲の無理解から出てきたものです。彼の音楽は当時のソ連共産党幹部たちはまったく理解できませんでした。

 スターリンなどは、「なんだか小難しいばかりでさっぱりわからない、もっと誰でも楽しめるような曲をかけ」。と要求してきたのです。然し、彼の音楽は歌謡曲ではないのです。

 人間の苦悩、悲しみ、やるせない思いを綴っています。しかも現代作曲家ですので、不協和音や特殊な音階を使います。知らずに聞けば「何だこりゃ」、という音楽です。

 そうした作曲家に歌謡曲を求めるのです。それもやさしく求めて来るならまだしも、共産党幹部は、突然作曲家を拉致して、シベリアに送ったり、射殺したりします。理由などありません。スターリンがつまらないと言えばそれで暗殺されます。

 拉致する警官は日中から晩の6時までの間に来ます。ショスタコーヴィチは、部屋に閉じこもり、夕方6時を過ぎると、「あぁ、今日も生きて来れた」。と安堵する毎日でした。

 当時のソ連の作曲家はみんな死の恐怖を味わっていました。プロコフィエフなどは、アメリカで前衛的な音楽を作曲して人気があったのですが、共産党の甘い誘いを受けて、安定した生活保障をエサに帰国をすると、そこは脅迫、粛清のとんでもない社会でした。

 そこで彼は、いじましいほど共産党にすり寄って、明快な音楽を作ります。ピーターと狼などは前衛作曲家がどうしてこんなものを書くのかと思うような曲です。

 然し、ショスタコーヴィチが伝えたい曲はそうした音楽ではありません。そこで、表向きは共産党の批判を受け入れ、革命賛歌のような曲を作りながら、曲の行間に隠れて、心の内側を吐露しようとします。

 曲自体は平明なメロディーが出て来たり、派手なファンファーレが高らかになりますが、それを否定するかのように、「僕が書きたいのはこんな安手な喜びではない」。というメッセージを刷り込みます。

 これでは鬱々として、聴いていて心が晴れないのは当然です。彼の苦悩は、彼の本心を理解しようとする聴衆のみが共有できる悲しみなのです。20世紀の偉大な作曲家の筆頭に挙げられながらも、恐らく彼の音楽はこの先も大衆に歓迎されることはないでしょう。

 

 ブラームスの暗さは、彼の持つはっきりしない性格、諦めきれない性格から出ています。そもそも彼は、早くに音楽界で認められ、ドイツでは、ベートーベンを継ぐ継承者と最高の賛辞を受けながら、多くの支持者を集めていたにもかかわらず、彼の音楽はどうにもならないことをぐずぐずと悩み,後悔を引きずったまま私的な話に終始します。

 彼は師匠である、シューマンの妻、クララに恋をして、そのことが言い出せず、生涯思いを語れないまま独身で終わっています。人妻に恋をしてはいけないことは今も同じです。しかも、自分を引き上げてくれたシューマンの妻と言うのでは、結ばれるわけはありません。そのことをわかっていながら、一生その恋を引きずって生きています。

 彼の音楽は構造がどっしりと立派で、バロック様式の大聖堂のようながっちりとしたつくりの音楽ばかりですが、その曲の中で語られている内容は、満たされない恋であったり、人生の後悔であったり、不器用な自分を卑下したり、余りにプライベートな問題ばかりが出て来ます。

 「そんな音楽のどこが楽しいんだ」。と思う人もあるでしょう。ところが世界中でブラームスファンと言うのは多いのです。彼は極めてロマンチストで、曲そのものは極めて美しいのです。しかも、心の問題を正直に吐露して、苦悩するのです。そこに多くの人が共感します。

 ブラームス愛する人は、大学教授や弁護士と言った知的な階層に多いと言います。曲は、短調長調が頻繁に入れ替わり、まるで日がさしたり曇ったりを繰り返します。今、陽気に語っていたかと思うと突然自己の暗い記憶を語りだしたりします。「で、結局何が言いたいの」。と尋ねても、いつまでも煮え切らないのです。ブラームス個人を愛せない人にはとても付き合える話ではないのです。でも歴史に残る優れた音楽なのです。変ですよね。

 

 チャイコフスキーは、今まさに崩れて行く、貴族社会の矛盾を備えながら、その美を極限まで高めています。ロシアにいながら、パリやウィーンの文化に憧れ、パリやウィーンにも存在しないような濃厚なロマンチックな音楽を作り続けた人です。

 然し、曲の根底にあるものは、暗く寂しく、常に不安が付きまといます。甘美なメロディーの中に「このままこうして生きていて大丈夫だろうか」。という不安が聞こえてきます。

 しかも始末の悪いことに、そうした不安や寂しさを感じている自分の姿が、当人は好きなのです。とんでもないナルシストで、悲劇の主人公を演じている自分自身に酔いしれています。

 彼がもののあわれを語るときは、花を眺めて、「しず心なく花の散るらん」。などと言いながら、花との別れを惜しみつつ、その実、花を見つめている自分の姿に惚れ込んでいます。花の寿命の儚さを微細に語りはしても、馬車で道を走っているときに、道端に転がって今日にも命が無くなると言う浮浪者にはまったく眼中に入らないのです。

 つまり、彼の美意識は貴族の美意識であり、そこで語られる世界は非現実的な世界です。彼が表現したものはすべて自分の創造であり、現実のロシアの街中に存在した世界ではないのです。そして自分と自分の作り上げた世界に常に不安を感じ、それを嘆く自分が美しいと感じているのです。

 「そんな人の音楽のどこがいいのか」。と思うでしょう。美しいのです。実に極上の世界なのです。並の映画音楽など吹き飛ばしてしまうほどロマンチックです。内容のことなど考えず、ひと時メロディーに浸っているにはこれほど美しい世界はないのです。

 私なんぞは、「付き合いきれないなぁ」。と思いつつも、交響曲の5番、6番、ビアノトリオの「ある芸術家の生涯」などは時折聞きます。まさに麻薬の世界です。

続く

 

 25日の、私のリサイタル、「摩訶不思議」は幸いチケットが売れています。ご覧になりたい方は、お早めにお申し込みください。

 

 16日の玉ひで公演、まだお席あります。よろしかったらどうぞお申し込みください。