手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ミンシュとパリ管 1

ミンシュとパリ管 1

 

 またクラシックネタで失礼します。前回カラヤンについて書きましたら、通常クラシックネタのブログは、読者数が200人を超えることはほとんどなかったのですが、何と300人近く読んでくれました。それならば、と、またぞろクラシックについて書きます。

 今日のタイトルはクラシックを知らない読者にすれば何のことか見当がつかないだろうと思いますが、レコードマニアならばすぐに、ベルリオーズ幻想交響曲と、ブラームス交響曲1番の二曲と理解されます。

 すなわち、シャルル・ミンシュ指揮のパリ管弦楽団の演奏のことです。もう50年も前の1968年の録音です。昨晩の深夜、久々この二曲を聞きました。なぜ聴いたかと言うなら、先週の土曜日の教育テレビ、N響アワーで。ファビオ・ルイージが、ブラームスの2番を演奏したときに、どうも低音部の厚みがなくて、物足らなかったので、「あぁ、ブラームスはこんな演奏ではない」。と、一人つぶやいていました。

 ルイージは新しいN響の常任指揮者でクールな演奏で、期待をしているのですが、矢張りイタリアの指揮者にドイツ音楽は相性が悪いのか、軽々としていて満足できませんでした。それ以来心の中に、分厚いブラームスを聞きたいと言う思いが募りました。

 そこで昨晩ミンシュのブラームスを聞きました。圧巻です。私が高校に入ってすぐ、母親がソニーのインテグレートと言うステレオを買ってくれました。後にも先に母親が私にこんな大金を出してくれたことはありませんでした。出してくれた理由は明快で、私が都立高校に入学出来たからです。もし私立に入ったなら、その時の覚悟として入学金を用意していたようですが、それをステレオに充ててくれたのです。

 そのステレオに見合うレコードとして、当時話題だったミンシュのパリ管の、ブラームス幻想交響曲を買いました。どちらも地響きがするような重低音で、しかも、神懸かったような狂気ともいえる演奏に、15歳の私は度肝を抜かれました。後にも先にもクラシックのレコードでこれほど感動したレコードはありません。ミンシュは、メンゲルベルクと並んで生涯私の忘れることのできない神様のような指揮者です。

 

 第二次世界大戦後のフランスは、優れたオーケストラをなかなか維持できませんでした。当時の欧州では、ベルリンフィルウィーンフィルアムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団、この辺りが世界のトップに位置していたのです。

 フランスにも、古くからパリ音楽院管弦楽団。と言うものがありましたが、文字通り、音楽大学に付属する管弦楽団で、国の支援の少ないオーケストラでしたから、演奏家のレベルにばらつきがありました。実際楽団員は、指導などで生計を立てていて、演奏回数も限りがあり、稽古日数も満足に取れない状況だったのです。当然世界レベルからすると格下だったのです。

 これを何とか最高レベルのオーケストラに引き上げようと、国と有志が立ち上がって、パリ音楽院管弦楽団を再編成して、パリ管弦楽団を組織しました。先ず楽団の維持安定を図り、楽団員の生活保障をし、技量ある演奏家を入れ、それを統率する指揮者として、シャルル・ミンシュを迎えようと言う動きに発展して行きます。

 

 ところが、ミンシュは、この時すでに引退していました。ミンシュは、1891年生まれ、フランスとドイツの国境にあるアルザス地方のストラスブールの生まれでした。この地域は、常にドイツとフランスの戦いによって、度々支配者が変わる土地で、学校でもフランス語の教育とドイツ語の教育が目まぐるしく変わると言った、複雑な土地柄でした。

 シャルル・ミンシュも、同様で、生まれたときはドイツ領であったため、名前もドイツ語読みで、カール・ミューヒと呼んでいました。第二次大戦中、ドイツの支配を嫌いフランス人になります。後々になりますが、彼はドイツ音楽にもフランス音楽にも精通し、独特の世界を作り上げます。

 戦後1949年、ボストン交響楽団の常任指揮者になり、1962年に引退するまで、ボストン響を指揮します。その後フランスに帰り、引退生活を始めます。

 もしミンシュがこのまま引退をしていたら、恐らく彼の評価は、熟練のロマン派指揮者と言う認識で終わり、その後に名を残すことはなかったと思います。無論、ボストン響とのレコードも多数出していますし、その中には名演奏もありますが、巧く、老練ではあっても世界の頂点に位置した指揮者にはならなかったでしょう。

 

 ところがここにパリ管弦楽団の再生運動が起こり、パリ管のメンバーや、国民全体の後押しもあって、引退していたミンシュは引っ張り出されて音楽監督に就任します。ここでミンシュは国への最後のご奉公とばかりに体調の不備を隠し、積極的にパリ管を引き連れ、欧州公演をし、日本公演をし、さらに二つのレコードを残します。元々熱演型の指揮者でしたが、この最後の二年間は体全体から炎だ立ち上るような気迫のこもった演奏をし、音楽ファンを驚かせました。

 それがあらぬか、公演中に心臓発作を起こし77歳で亡くなります。まさに国への最後のご奉公で、命を燃焼させました。よく言えば音楽に命をささげたのですが、見ようによっては老人虐待です。無理だ、いやだと言う老人を引っ張り出して殺人的なスケジュールを強要したのですから、果たして寿命は一気に縮まりました。

 然し、残された二枚のレコードは今聞いても開始からすさまじいばかりの気迫を感じます。ボストン時代の演奏も迫力がありましたが、この二枚のレコードは別格です。彼はたった二枚のレコードによって巨匠の名を残しました。

 話は長くなりましたが、私が書きたかったのはここです。つまりどんなに音楽に愛情があって、知識があって、巧い指揮者であっても、それは世界レベルで言うなら音楽をよく知る秀才の一人に過ぎません。

 歴史に残る指揮者になるには、巧い、知識がある、音楽を愛している、それだけではだめなのです。自身の生命をそこにぶつけて生きるか死ぬかの瀬戸際にまで追い込んで音楽を表現しなければ本当の芸術にはならないのです。明日はこの続きを書きます。

続く

 

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続く