手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

フルトヴェングラー

フルトヴェングラー

 

 このところ、youtubeに往年の名指揮者の録音で、未発表のものが随分出て来るようになりました。今まで自分で買って聞いていたレコードの演奏が、指揮者の年代によって随分演奏スタイルが違うことを知ると、面白く、夜中に頻繁にyoutubeをあさってはいろいろなクラシックを聴いています。

 私の書くブログの中で、一番反応の良いものが、マジックに関するもので、次が芸能全般。次が食に関するもの。次が政治、世相。そして人気のないものが、自動車、クラシック音楽、になります。

 今日は最も人気のないクラシック音楽の話をします。小学生のうちは、指揮者やオーケストラに関係なく、ベートーベンの運命とか、英雄、シューベルトの未完成、モーツアルトの40番41番。など、名曲と言うものを手当たり次第に聞いていましたが、中学生になると、少し耳が肥えてきて、指揮者や、オーケストラを選ぶようになりました。

 私の中学生時代、すなわち1960年代末当時、クラシック界の指揮者のスーパースターは、ベルリンフィルハーモニーの首席指揮者。ヘルベルトフォンカラヤンでした。

 この人は、クラシックと言うジャンルを突き抜けて、カリスマと呼ぶにふさわしい人で、何をやってもカッコよく、顔立ちも高貴さが溢れていて、 体形も、スマートで若々しくて、スポーツマンで、文句のつけようのない人でした。

 大体それまでの指揮者は、デブだったり、剥げていたり、目つきが悪かったり、神経質そうだったり、およそ人に見られることを意識して行動するような人はいませんでした。

 然し世の中は映像の時代になり、指揮者もカッコよくなければ観客を呼べなくなってきたのでしょう。

 そんな時にカラヤンは、見せる指揮と言うものにこだわりました。指揮をするときは譜面を見ずに、目を閉じて、自らの瞑想の世界に浸るかのように、ことさら神秘性を強調します。そして、全体の演奏は颯爽として、ベートーベンなども、快速のテンポで、まるでアウトバーンBMWカブリオレですっ飛ばすような爽快な演奏をしていました。

 当初は私もそれに影響されて、随分カラヤンのレコードを集めました。

 ところが、聞いてゆくうちに物足らなくなります。ベートーベンにせよ、ブラームスにせよ、軽く流して聞く音楽ではありません。彼らは悩み苦しみ、心の内側を訥々(とつとつ)と語って行きます。なぜ彼らがこうも長い、七面倒くさい言い回しの音楽を作ったのか、それは彼らの考えが分からなければただ長いだけで、全く理解できません。流れているメロディーをサーッと上っ面だけ聞いていたのでは何もわからないのです。

 音楽が少しわかりかけて来ると、ここをこんな風にあっさりと流して演奏していいのだろうか、などと生意気な疑問が湧いてきます。もう少し深い解釈で演奏する指揮者に憧れるようになります。

 そんな時に出会ったのが、ドイツ人のフルトヴェングラーであったり、オランダ人のメンゲルベルクであったり、オーストリア人のワルターだったのです。この三人と、イタリア人のトスカニーニの四人が、戦前の四大指揮者と呼ばれて、互いが超個性的な面白い演奏を聞かせていました。

 いずれにしても戦前のSPレコードですので、雑音が多く、録音状態も悪いものが多く、当時はレコードの片面が5分程度の演奏で、それより長い曲は、レコードをひっくり返して聞いていたため、ベートーベンやブラームスなどの50分もの長大な演奏は、何度もレコードを引っ繰り返して聞かなければなりませんでした。

 私は無論その復刻版をLP盤で聞いていたので、引っ繰り返す手間はいらなかったのですが、演奏の途中で明らかに音色が変わるところがあり、「あぁ。ここで昔の人はレコードを引っ繰り返していたんだな」、と納得しました。

 

 共に思い入れの深いロマン派的な演奏をしていたのが、フルトヴェングラーメンゲルベルクでした。世間の評価はフルトヴェングラーの方が高いのですが、私はメンゲルベルクが好きでした。なぜと問われてもこれは好みだと言うほかはありません。決定的な違いは、フルトヴェングラーは音色が暗いのです。どの演奏を聞いても重厚で陰鬱です。

 特にブラームスなどは、そもそもが陰気臭い音楽なのですが、それをフルトヴェングラーが一層陰気に演奏します。一番から四番までの交響曲などは、どれも陰気臭くて、聞いていて絶望感を感じます。

 無論「そこがいいんだ」、と言う人もあるかも知れません。然し、同じ曲をワルターが演奏すると実に牧歌的な、のどかな演奏になります。これが同じ曲とは思えないほどです。

 フルトヴェングラーは、ブラームス交響曲四番の第一楽章の開始の第一音からして、まるでやるせないため息のような始まり方をします。もう冒頭から長い詠嘆が始まるのです。

 中学生や高校生のクラシックファンとしては、もう少し救いのある演奏をしてほしいと望むのは当然でしょう。それゆえに私はフルトヴェングラーをあまり好きにはなれなかったのです。

 それが最近youtubeで聴くようになって、「結構いいなぁ」。と感じるようになりました。それは年齢がそうなったのかも知れません。

 そもそもyoutubeなどでクラシックを聴くものではないと思っていましたが、イヤホンで聞くとそこそこいい音がしますので、ついつい嵌ってしまいました。

 昨晩も、道具の工夫が行き詰って、気分転換にフルトヴェングラーシューベルトのグレートを聞きました。あんな快活な曲でも、フルトヴェングラーが演奏すると、重たく陰気になります。然し、然しです。実に巧いのです。重たいの陰気だのと言っても、カラヤンとは格が違います。解釈の深さはまるで大人と子供です。

 ちょっと聞こうかと思って聴き始めたものが、ついつい最後まで聞いてしまいます。そしていつの間にか、1950年代のウィーンやベルリンに引きずり込まれて行きます。

 「あぁ、彼らは第二次大戦で徹底的に破壊しつくされても、これだけの文化を残していたんだなぁ」。食べる物も不足している中で聴くシューベルトは、現代の我々が聴く以上に格別なものに聞こえたでしょう。「こんな体験もいいなぁ。いつまでもこの世界に浸っていたいなぁ。なんて幸せなんだ」、としみじみ思います。

続く