手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

プロと臭み 1

プロと臭み 1

 

 クラシック音楽の番組を見ていると、数十人のオーケストラの中央に立って、小さな棒を振って、演奏家をまとめている人がいます。それを指揮者と言います。細かく指先を動かして何かを教えています。それがリズムであることは分かります。

 然しリズムを伝えるだけのためにそこに人が必要なものかどうかと考えると、どうもそれだけではないように見えます。しかも、オーケストラの中で、指揮者は最も重要な扱いを受けています。現代では指揮者は立派な職業ですが、これが職業となったのはそう古いことではありません。

 オーケストラによっては、軍楽隊から発展して交響楽団になって行ったところもあったらしく、軍楽隊は、今も、大きな杖を持った指揮者がいて、整列した楽隊の前に立って、大きな声とともに太い大きな杖を振って合図をしている人がいます。あれと同様に、昔は床をたたきながらリズムを取っていたようです。

 単純なリズムを楽隊に伝えるだけならそれでよかったのでしょう。このやり方ですと、杖の音が響いて、室内では相当にやかましかったろうと思います。

 この杖を持った指揮者があるとき、杖を自分の足の上で思いっきり突いて大怪我をしてしまいます。よほど気合の入った指揮をしたのでしょう。以後、このやり方はまずいと判断したのか、杖は使わなくなりました。

 その後、指揮は作曲家が兼務する場合が多くなります。モーツァルトなどは、自作のピアノ協奏曲を、自らが演奏しながら楽団員に指揮をしています。

 今でもこの演奏の仕方をダニエルバレンボイムと言う指揮者が復活させて、ピアノ協奏曲を自身がピアノを演奏しつつ、指揮をしています。才能豊かで、かつてピアニストであったバレンボイムとしてはこうした演奏形態は得意でしょう。然しこのやり方が世界の潮流になることはなく、一時の物珍しさに終わったようです。

 ヨハンシュトラウスなどは、自らのオーケストラを率い演奏活動をしていて、自らもバイオリンを弾き、ところどころバイオリンの弓で指揮をしていました。

 

 然し、1850年ごろから、西洋音楽が複雑化して来て、作曲家や、ピアニストやバイオリニストの片手間の指揮では難しくなって行きます。

 そこで専業の指揮者が誕生します。その初代は、ハンス・フォン・ビューローだと言われています。私もこの人の詳細は良く知りませんが、ドイツの貴族出身で、若いころは親の勧めで、法律家を目指していたようですが、当人は音楽が好きで、やがてピアニストとして活躍を始めます。

 その後、作曲家のリストに認められ、リストと師弟関係になります。更に、リストの娘のコジマと恋仲になり、やがてコジマと結婚をします。音楽家としてはエリート中のエリートの出世街道を歩みます。

 ピアノ演奏の活動を熱心にする傍ら、指揮も行い、やがて彼独自の指揮法を編み出すに至ります。この頃出来たばかりのベルリンフィルハーモニーの音楽監督に就任し、ベルリンフィルを鍛え上げます。そこから後年に活躍する優れた指揮者が排出するわけで、いわばビューローは、その後の指揮者の原型を作り上げた人です。

 と、ここまでが19世紀末(明治の中頃)までの話です。この時代になってようやく指揮者と言う職業が認められるようになり、以後、指揮者を目指す若手がたくさん生まれます。ビューローの後輩には、マーラーなどもいました。

 

 指揮者が活躍した19世紀末から20世紀中ごろまでは、かなり濃厚な音楽解釈をする指揮者がたくさんいて、そうした指揮者が半ば自身の我儘を押し通して、公然と旧作品の改作を始めます。ベートーベンの交響曲でも、トランペットやホルンを二倍に増やして派手に演奏したり、譜面のないところにティンパニーを加えて、曲にメリハリを付けたりと、指揮者の仕勝手が横行します。

 これは、交響楽団の常任指揮者に選ばれたものとしては、未だ、海のものとも山のものとも理解されていない指揮者と言う職業に、世間の評価を集めたい一心で、自分が指揮をすれば、他の指揮者とは歴然と違った音楽、今まで聞いたことのないような迫力ある音楽になることを強調したかったのでしょう。

 そのため、旧作品の改案や、時としてほかの曲を挿入したり、書き換えたりと、物凄いことをやっています。今日我々が知る指揮者は、録音機が生まれてからの指揮者で、当然、その指揮の仕方は、ロマン派時代の影響をかなり濃く残していて、トスカニーニも、メンゲルベルクも、フルトヴェングラーも、ワルターも、大なり小なり譜面を書き換えて、独自の解釈を加えて演奏しています。

 私なぞは、指揮者の、そのはみ出した解釈が面白くて、いまだに古いレコードを引っ張り出して聞いているのですが、戦後(1945年以降)の演奏家はだんだんに極端な解釈をする人が減って行きました。より譜面に忠実に、と言うのが現代の考え方のようです。

 これは私が思うに、現代は録音で繰り返し繰り返し聞くことが出来るようになりましたから、極端な解釈や、個性の強い演奏は、癖ばかりが目立って、原作を邪魔しているように聞こえるからではないかと思います。

 例えば、1930年代の演奏会で、この時代に演奏会に頻繁に行けて、同じ曲を何度も聴けた人は限られていたと思います。チャイコフスキーであれ、ベートーベンであれ、生涯に一度聞けるかどうかのチャンスであったなら、その演奏の仕方は、観客に一生忘れられないような極端なイメージを植え付けるために、思いっきり味付けの濃い演奏をして聞かせる必要があったのでしょう。そうすることで、聞きなれない音楽を初心者にもわかりやすく伝えていたのです。録音技術の発展した時代とその前では当然演奏スタイルも違っていたわけです。

 

 この事で思い出すのは、私の親父が、戦争中農村慰問や、軍の慰問をするときに、当時は笑いと言う芸を知らない観客が大勢いたために、芝居でも漫才でも、笑いのポイントに来るとわざとゆっくり喋ったり、洒落のところは声を強めて強調したり、語った後は笑いを引き寄せるためにセリフを止めて、観客の笑いを待つ。と言う作業をしないと笑いが取れなかった。と言っていました。

 現代にそんな臭い喋り方をして、漫才や漫談をしたなら、返って白けてしまうでしょうが。全く笑いの芸を知らない人たちを相手にするときに、パァパァと喋ってしまうと、観客はきょとんとして付いて行けなかったのです。

 そんな臭い演出を、「これがプロの演技だ」。とまことしやかに楽屋で後輩に教えて、それで仕事が成り立っていた時代があったのです。

続く