手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

 

 昨日(21日)は、中華蒸籠(せいろう)を稽古しました。私は中華蒸籠を日本式に改めて演じています。本来日本には、緒小桶(おごけ)と言う三本筒の芸が江戸中期までありました。これは中華蒸籠の原型の奇術です。10年前にこれを復活上演しましたが、今一つ見せ方がすっきりしません。と言うよりも、今、中華蒸籠の扱いを見てしまうと、緒小桶は物足らないものに感じます。そこで中華蒸籠を外観から壺までデザインをし直して10年ほど前に和風に作り変えました。筒は飴色のニスで塗り、渋く出来ています。中の壺は、メッキの壺ではなく、グラスファイバーで作って、陶器に見えるように白地に梅の絵の描かれています。

 私は昔から中華蒸籠は好きでしたが、あのメッキの壺が嫌いでした。メッキの壺と言うのは日本中のどこの家の床の間にも飾ってありません。そこで一から製作したのです。ところが、私がデザインした蒸籠も壺も、うっかり全部弟子や生徒さんに出してしまったのです。困りました。そこで昨日、従来のメッキの壺に艶消しの白の塗料を吹き付けてみました。いい具合です。ちょっと見ためには金属に見えません。これでしばらく稽古をして、4月の玉ひでにかけてみます。

 

天一 7 西洋奇術一座旗揚げ

 天一に大きな影響を与えたジョネスと言う人物が謎の人です。どんな人なのかよくわかりません。アメリカ人とも、イギリス人とも書かれています。職業も、奇術師とも、貿易商人とも書かれています。天一も「紳商ジョ子ンスー(しんしょうジョネンスー)」などと述べています。紳商とは紳士の商人と言う意味でしょうか、そうなら人品の確かな人でしょう。名前はジョネスが本当か、ジョネンスーが本当なのか不明です。

 貿易に関わっていて、趣味で奇術をしていたと言うことは十分あり得ます。後に天一がジョネスの奇術師の技量を語らなかったところを見ると、ジョネスはアマチュアで、奇術の腕前はそう大したものではなかったのかもしれません。そもそも、自分一人でショウができるなら、天一を使う必要はないわけですから、そう持ちネタの多い人ではなかったのでしょう。

 ジョネスは、軽業の芸人を連れて、上海あたりまで売り込んでいたと言う記録もありますから、プロモーターもしていたのでしょう。謎多き人ではありますが、何にしてもジョネスが天一を雇ってくれたことは幸いでした。

 「新古文林」では、ジョネスに買われて年1000円で3年契約をした。等と書いていますが、当時の1000円は現在の3000万円に匹敵します。3年で9000万円の契約をしたと言うのは吹きすぎです。ジョネスとともに、イギリスに行き、更に欧州各地で興行し、西洋の奇術師と奇術合戦をしたなどと述べていますが、全てほらです。

 まだこの時期、天一は海外に行ってはいません。私は外務省の外交史料館渡航資料を調べたところ、天一がこの時期に海外に出た形跡はありません。何しろ無宿人ですから、パスポートが下りません。恐らく天一は、横浜、神戸、長崎の外人居留地でジョネスの興行を手伝っていたのだと思います。

 ジョネスとはどこで会ったのか、これも謎です。長崎で知り合ったと言う記述もあります。ジョネスは横浜に住んでいたと言う新聞記事があります。また、天一の活動を考えると、神戸と言うことも考えられます。神戸には今も、ジョネス邸と言う西洋館があります。この建物が後のジョネスの家だったとしたら、ジョネスは相当に大きな仕事をしていた人と言えます。実際がどうなのかはわかりません。

 話を戻して、恐らくジョネスは、外国人居留地で奇術を見せていたのでしょう。そうした流れの中で、上海あたりに行く話があったのかもしれません。そこで天一は、大慌てで、阿波の西光寺に行き、籍を入れてもらいに行った可能性はあります。

 後年天一は、本名を服部松旭と名乗ります。これは唯阿上人から勘当を許されて服部を名乗るのですが、実は、唯阿上人自身は天一の父親の弟ですから、牧野を名乗っていたはずです。それが明治9年に、地元の有力者の服部家を相続して服部姓を名乗ることになります。いきさつは不明ですが、廃仏毀釈(仏教を教えてはいけない)の法律などで、寺は一時存続出来ず、唯阿上人は僧職を降りたのかもしれません。

 いずれにしても天一が服部になるためには、唯阿上人が服部を名乗っていなければならないわけですから、天一が唯阿上人に侘びを入れて籍に入れたのは明治9年以降になります。恐らく、ジョネスを知り合って、上海行きのために急ぎ籍を入れてもらいに行ったときに服部になったのではないかと思います。それが明治11年頃だとしたら、天一26歳の時になります。

 天一は、このころ服部松旭になりましたが、その名前で海外に出た形跡はありません。この時期は神戸か長崎の外人居留地でジョネスを手伝っていたのでしょう。そもそもジョネス自身も日本の法律で、勝手気ままに日本の町を歩くことは出来なかったのです。まだ攘夷派の侍の生き残りがうろついていて、外国人の外出は危険だったのです。

 

 天一がジョネスと知り合ったことは大きなチャンスを生みます。一つは、ジョネスから西洋奇術を習ったことです。情報の少なかった時代に西洋奇術を習えたことは幸運でした。但し、ジョネスが親切心で教えたとは思えません。給料から天引きしてレッスン料を取るなどしたのかもしれません。いずれにしても日本の徒弟制度とは違った形で奇術を教えたのでしょう。

 それにもまして、天一の掴んだ大きなチャンスは、西洋人の立ち居振る舞いを覚えたことです。常にジョネスについていて、彼らがシルクハットや手袋をいつ外して、どういう風に持っているか、挨拶はどういう風にするのか、細かなマナーを見て取ったのです。これにより、天一は西洋のマナーを覚えたのです。これがこののち天一を大きくします。日本の県知事や、政治家ですら、洋服姿が慣れずに苦労していたのに、天一は舞台姿が堂々としていましたし、服装がきっちりした正装だったのです。

 この時代の西洋奇術師を真似た日本人は、いい加減な服装の奇術師が多かったのです。シャツは買えても上着が買えずに陣羽織を着ていたり、ズボンが買えないために袴をはいていたり、およそ西洋人に見えない格好で西洋奇術を演じている人が多かったのですが、天一はそのレベルを超えていたのです。このことが天一を大きく見せ、出世の糸口をつかむことになります。

 ジョネスの元を離れ、明治13年の正月。天一は千日前の興行で、西洋奇術一座の看板を上げ、華々しくデビューをします。

続く(明日は日曜日ですのでブログを休みます)