手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 6 西洋奇術と出会う

天一 6

 

打ち合わせと小春軒

 昨日(22日)は、夏以降のショウの企画の打ち合わせに行きました。この企画が決まれば、かなり長く大きな仕事が手に入ります。私のメリットだけでなく、若いマジシャンにも仕事を提供できます。そうなればそこから優れた人材も育って行くでしょう。何とか企画が成功するようにチャンスをつないでゆきたいと思います。

 帰り際に、人形町の洋食屋さんの小春軒に行ってきました。さて、私が小春軒に入るのは三十年ぶりです。今までも玉ひでには頻繁に来ているのですが、その並びにありながら、小春軒にはなかなか寄ることが出来ませんでした。ここの得意は揚げ物なのですが、自慢のミックスフライを頼むのは今の私にはどうかなぁ、と躊躇しました。

 と、言うのも最近、脂で揚げたものがあまり食べられなくなってきました。残したらまずいなぁ。と思っていると、店のおかみさんが「うちのミックスフライは90歳のお婆さんでも食べますよ」。と言われ、それならと、私と前田の分二人前を注文しました。

 出てきたものはメンチカツや、とんかつが小さく作ってあり、海老フライだけが立派な大きさでした。依然食べた時には、もっとボリュームがあったと思っていたのですが、あの時は、海老フライとメンチカツを別々に頼んでいたのかもしれません。ミックスフライの盛り合わせは、メンチなどは一口サイズでしたので、このサイズなら十分食べられます。イメージばかりが膨らんで過大に考えていました。

 味は、高円寺のDAIGOに揚げ方が似ているように思いますが、小春軒はガーリックを使うなどして個性を出しています。

 元々初代が明治の末に帝国ホテルでコックをしていて、その後人形町に店を出したのですが、そのフライの揚げ方が、少しもしつこくなく、からりと上がっているところが評判になり、100年ののれんを維持しています。店は少しも気取ったところがなく、ガラガラと明ける引き戸も昔のままです。そのまま蕎麦屋や、うなぎ屋に替えても成り立つくらい和風な店です。

 ライスが付いて1500円はお安い価格です。前田は思わぬご馳走に大満足でした。日常の洋食として一度召し上がっては如何でしょう。土日は休みです。

 

天一 6 西洋奇術と出会う

 真剣に師匠を探していた天一は、養老瀧五郎に断られ、吉田菊丸(後の菊五郎)に断られ、彷徨(さまよ)った挙句、音羽と言う師匠に出会います。この音羽が屋号なのか、名前なのか不明です。後に天一は、音羽瀧寿斎と名乗って水芸をするようになりますので、常識的に考えて、音羽は屋号で、その後に〇〇斎と名前が付いたのでしょう。しかし天一はついぞ師匠の名前を世間に明らかにはしませんでした。

 なぜかと言えば、名を成したのちの天一は、自らを水芸の元祖とほらを吹いていました。自分が元祖なら師匠がいるはずはありません。そのため、音羽の師匠を隠してしまったのでしょう。義理堅い天一としては汚点と言えます。

 天一の弟子の天洋は、「奇術と私」の著述の中で、「先生(天一)は昔、音羽斎寿斎と名乗っていた」。と書いています。音羽斎寿斎とはおかしな名前です。名前に斎の字が二度も出て来ます。天洋は記憶違いが多く、時に師の話は読者を混乱させます。色々調べると、音羽瀧寿斎が正解でした。

 天一音羽瀧寿斎なら、師匠の名前は誰なのかと調べましたが、わかりません。大きな流れで言うなら、養老の一門のようです。と言うのも天一が初期に演じていた水芸は、大きな水枕を舞台袖で後見が圧縮して、それをホースで送る式のようですから小型で軽量な水芸です。水枕を使うのは新工夫ですが、江戸時代の、水の出る個所の少ない、柳川や、養老の初期の水芸を継承していると考えられます。

 そんな水芸でも、弟子にはなかなか教えてはもらえなかったでしょう。厳しい徒弟制度の中で天一は苦しい日々を過ごしたのだと思います。晴れて独り立ちした後も、天一は修行時代を何も語ろうとはしません。嫌なことが多かったのでしょう。

 それでも水芸を習得した天一は、明治9年頃(私の推測です)に音羽瀧寿斎として一座を持ち、主に関西、中国、、四国方面で小屋掛けに出ていたようです。その興行が評判だったのかどうかは分かりません。ただ、天一が西洋奇術師として成功した明治20年ごろ、天一を見た人は、当時35歳だった天一を45歳くらいに思っていたようです。

 額の皺は深く、その顔には明らかに苦労の跡が見えたようです。若いころから一座を持ち、来るか来ないかわからない観客を当てにして、座員の面倒を見る天一は、若くしてたくさんの苦労を抱えていたのでしょう。

 私なども、26歳からイリュージョンの仕事をはじめ、男女のアシスタントを雇って給料の面倒を見ていたころを思い出すと、天一の苦労は全く人ごとには思えません。

 20代半ばの天一は、当時出来た千日前の興行街に頻繁に出ていたようです。千日前は今は難波グランド花月などがあり、大阪の中心の繁華街ですが、元々は墓場と刑場のあったこの地域は明治になって、一帯を整備しましたが、場所が場所だけになかなか人が借りたがりません。そこで大阪市はこの地を興行街にして人を集めることを考えます。人が集まれば、飲食店などもできると考えたのです。

 今も昔も大阪の一等の繁華は北と南です。北は梅田、南の中心は道頓堀。道頓堀には江戸以来の芝居小屋が五軒並んで建っていました。それぞれが1000人以上入る大きな芝居小屋です。ここが格としては大阪一番でした。天一はこの五座には出演できません。もっぱら千日前の小屋掛けに出ていたのです。

 私が27歳の時に、大阪の角座に出演しました。当時は道頓堀の五座が残っていました。日本橋(にっぽんばし)から歩いて行くと、文楽座、東映の映画館(江戸時代の朝日座)、角座、中座、戎(えびす)座、この五座の中の角座に出られたことが今となっては貴重な経験でした。20代半ばの天一は、五座に出たいと思いつつも、それが果たせず、千日前の粗末な小屋掛けで日々を送っていました。

 そこに転機が訪れます。アメリカ人のジョネスと言う奇術師が、天一の水芸を気に入ってくれて、一緒に興行しようと言ってきたのです。しかも、場所は西洋人居留地での催しです。毎日西洋人の生活を観察できるわけですし、天一にすれば西洋人が自らの水芸をどう評価してくれるかも興味です。なお且つ、ジョネスの奇術を手伝うことも条件に入っています。上手くすれば西洋奇術を習えるかもしれません。一石二鳥、いや三鳥の機会です。天一はジョネスの申し出を二つ返事で引き受けます。

続く