手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 5

天一 5

 さて四国を離れ、意気揚々と和歌山に渡った天一は、大きな野心を抱いていたでしょう。和歌山で成功すれば、大阪までは目と鼻の先です。大阪で名を挙げて、日本一の剣渡りの大夫になろうと考えていたと思います。

 和歌山に着くと、興行師が、「つい最近大阪で火渡りの術を見てきました、すごい術でした。時に大夫さんは火渡りはされますか」。と尋ねて来ました。天一は若気の至りで、「ああ、出来るよ」。と安請け合いをしてしまいます。すると興行師が「それならば剣渡りだけでなく火渡りもやりましょう」。と言って、剣渡りと火渡りの二つを演じる大夫とビラを書き直し、町中宣伝してしまいます。天一は出来ると言った手前やらないわけにはいきません。然し、天一は火渡りを見たことも、やったこともありません。山伏の秘術だと言う話は聞いています。実際どうやるのかは全く知らなかったのです。

 そんなことはお構いなしに、興行師は、炭俵を買い込み、翌日、芝居小屋の舞台と客席の間の一部の床板を外し、そこへ横一列に渡り道をこしらえます。道の上には炭をたくさん並べ、開演と同時に火をおこします。お客様は満員です。火は赤々と燃え盛り、あとは大夫の出を待つばかりです。興行師に「大夫、どうぞお願いします」。呼び出されて舞台に出ると、火が恐ろしいほど燃え盛っています。さすがの天一も怯(ひる)んで、身が竦(すく)んでしまいます。

 昨日はいい加減な返事をしてしまいましたが、実際の炎を見てどうにもなりません。

「でも、素早く早く走り抜ければ、何とかなるだろう」。と高を括って、炎の中を走り抜けようとしました。ところが一歩足を踏み入れた途端、熱いのなんの、とても走れるような状態ではありません。たちまち気絶して、倒れてしまいます。

 気が付けば宿屋の布団に寝ていました。何日寝ていたのかは知りませんが、足は全く動きません。あたりを見渡すと、座員も、女房の秀もいなくなっています。秀は天一に見切りをつけてさっさといなくなったようです。

 下回りの手品連も日頃は天一を大夫だの、兄(あに)さんだのと持ち上げていましたが、足が使えなければ剣渡りもできません。そうなら一座は維持できませんから、蜘蛛の子を散らすように消えてしまいました。恩知らずと腹を立てみてもどうにもなりません。下回りは食ってゆくのに必死なのです。

 

 後年天一は、和歌山での火渡りの話をことあるごとに面白おかしく人に話しましたが、この時は、人生のどん底に突き落とされた心地だったでしょう。実際火傷の痕はものすごく、足が膝まで焼けただれていたそうです。何でもあけっぴろげに話をする天一でしたが、足の火傷を人に見せることはなく、夏でも足袋を履いていたそうです。本心は大きな汚点だったのです。

 そして、宿屋で寝ていた天一は自問自答する毎日だったはずです。これまでの人生がうまく行きすぎていたのです。なんの修行もしていないのに、度胸だけで出世をつかみ、十代で大夫となり、土佐から四国、四国から和歌山と乗り出してゆこうとするまではよかったのですが、運は長くは続きません。大きな躓(つまず)きを経験します。

 私はこの時の天一を、禅の十牛図になぞらえ、芸道の修行を解説しました。ご興味の方は、ブログの十牛図をご覧ください。この時までの天一は、怖いものなしです。やることなすこと大当たりで、万事は自分を中心に世の中が回っているように思えたでしょう。然し、火傷をして無一文になって、全てのことが夢物語だったことを知ります。

 有名だったと言っても四国の一地方のことで、広く日本を眺めたなら、天一はまだ無名です。技も、適当に覚えたもので、まだ自分のものはない一つできてはいません。よくよく見たなら小さな成功だったのです。世の中に誇れるような物などないのです。

 天一は、この時始めで自分自身を等身大の寸法で眺めることが出来たのです。気付いてみれば、ただ世間知らずの十代の若造だったのです。それがわかると急に委縮してしまい、これまでの堂々とした姿は消えてしまいました。

 

 丸一か月宿屋で寝込んで、ようやく歩けるようになって、和歌山を離れますが、一か月の宿代と、治療費でこれまで稼いだ金はすべてなくなりました。仲間も女房もいなくなり、道具一式、衣装も売り払い、全く身一つで大阪に旅立ちます。

 大阪に行って実際に火渡りを見てみると、およそ和歌山でやったようなあんな火渡りではありませんでした。渡り道は、事前に溝が彫ってあり、そこにはわからないように水が張ってあります。その上に木の枝を梯子のように並べて、さらにその上に小枝を敷き詰めて水を隠してあり、そこに薪を敷いて上から火を興します。火は下火になるまで待ち、そこに鹹水(かんすい=石鹸の材料)と塩をまきます。共に火の温度を下げるそうです。さんざん温度を下げておいて、水を張った上を歩くのですから、大した熱さではありません。

 それを知らずに、火の燃え盛る炭の上を直に歩けば足は焼け焦げてしまいます。何も知らずに無謀なことをした自分が愚か者です。

 ここで天一は、しっかり芸を学ぶことの大切さを知ります。そして大阪で当時の手妻や奇術の興行を片端から見て回ります。すると誰を見ても巧く見えます。それまでどんな名人を見ても大した者とは思わなかったのですが、今は自分より若い芸人を見ても巧いと思います。初めて人の技量が見えるようになったのです。

 人は考え方が変わると、それまで見えていた世界が全く違った世界に見えるのです。

 さて、ここから天一の自伝は明治11年までの6年間が空白になります。他にも天一自身が語った読み物がありますが、どの自伝もこの六年間のことは書かれていません。謎の時代です。およそ人に言えないような惨めな生活をしていたのでしょう。天真爛漫で常に呆気羅漢とした天一でも、人に言えない時代があったのです。

 それでも調べてみるとおぼろげながら天一の足跡が見えてきます。天一は、実力ある奇術師の弟子になろうと、あちこちの名人を尋ねて弟子入りを申し込みます。然し、世間は全く天一を相手にしてくれません。天一は初めて奇術の世界で自分がどういう位置にあるのかを知ります。

 明治5年の最新流行の奇術は水芸でした。幕末期から様々な改良がなされて、この時期、今日の水芸の形が完成します。大阪では、養老瀧五郎が水芸の元祖を名乗っていました。明治5年、瀧五郎は還暦を機に、養老瀧翁斎を名乗り、華々しく披露をしています。天一は瀧翁斎の水芸を習いたかったようですが、あっさり入門を断られてしまいます。そこで、あちこち水芸の大夫を探して、音羽と言う大夫の弟子になります。その弟子修行に関してはまた明日お話ししましょう。

続く