手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 4

天一 4

 

日々の活動

 コロナウイルス騒動が始まり早1年です。この間私はブログを書き続けています。日曜日を除く毎日、原稿用紙にして7枚、約2800字を朝5時半に起きて、弟子の前田が来る9時までの3時間半、途中朝食時間を除いて2時間半、この間に原稿を書きます。

 なぜそうしているのかと言うなら、自身が目的を持つためです。毎日何もすることがないと言うのがいけません。どんなことでもいいからどこかで人とつながっていなければいけません。私の書いたものは、頻繁に電話が来たり、メールが来たり、様々な反応があります。全くマジックをしたことのない人も熱心にブログを見てくれます。

 私が出演する舞台なども宣伝していますので、ブログのファンが見に来てくれるようになりました。「マジックを見るファン」が増えています。これは私が最も望んでいたことで、有難いと思っています。そもそも、マジック愛好家の多くが「マジックを演じる愛好家」であることが不思議です。落語ファンで落語を演じる人は殆どいません。

 マジックを演じるファンと言うのは、藤山新太郎のファンと言うよりも、マジックのイフェクトファンなのでしょう。種仕掛けが好きなのです。そうした人は、なかなかマジシャンを支援してはくれません。マジック愛好家を相手にしている限り、自分のファンと言うのは育ち憎いのです。

 無論どんなお客様がいても結構です。ただ、私は純粋なファンを作りたくて、ブログを書いています。効果はかなりあります。この一年はずいぶんいい経験をしています。人が何を喜ぶのかを模索しつつ、毎朝原稿を書いています。

 

天一 4

 さて、宿屋の親父の協力もあって、独演会は満員です。伊賀越えなどを三日間続き物にして語り、他に西国の旅の途中に習い覚えた手妻をいくつか見せたところ、これまで直に芸能に触れることのなかった土佐の人々は熱狂します。三日三晩お客様が詰めかけました。やればまだまだ何日でも来ます。ところが4日目に、いよいよネタが尽きてしまいました。何とかしなければいけません。

 天一はふと、剣渡(つるぎわた)りの術を思い出します。剣の上に素足を乗せて、歩くもので、以前に六坊の修験者からやり方は聞いていたのでしょう。また、恐らく天一は、西国を旅しているときに、剣渡りの興行を見ていて、その大夫と親しくなるなどして、やり方のコツも習っていたのでしょう。然し、試したことはありません。

 そこで、宿屋の親父に剣渡りをしてみたいと相談すると、親父は面白がって宿屋にある刀を持って来ます。それを借りて、刃を上にして足をまっすぐ上から乗せ、そこへ体を乗せると足は斬れません。これなら簡単だと、早速町の道具屋から刀を20本ほど買ってきます。短い梯子を二本つなぎ、くの字に折って、山を作ります。梯子の桟を削って、刀が並べられるようにします。階段状にできた剣の山を端から登って、また降りて行きます。

 これはうまい具合だと、早速その晩の独演会にかけます。するとすさまじい反応で、観客は大喜びです。翌日にはたちまち近郷近在の村々にまで剣渡りの大夫の評判が伝わり、独演会は連日満員になります。

 それにつけても、朝、宿屋の親父に刀を借りて刃渡りを試し、昼には刀を買いに行き、晩には剣渡りの大夫となって人々に持て囃されたのです。大変なスピード出世です。天一の度胸の良さが幸運を招きました。

 この話は高知まで伝わり、すぐに高知の興行師が買いに来ました。早速高知の稲荷新地の芝居小屋で剣渡りの大夫と言う触れ込みで興行が始まります。興行は大評判です。

 そうなると天一は、伊賀越えの講釈などやめてしまって剣渡り一芸をして、地元の手品の下回り連を何人か雇い、一座を興します。

 

 ここで分からないことがいくつかあります。先ず天一は何という名前で剣渡りをしていたのか。天一の本名は、牧野八之助です。それが西光寺に入って、瑞山と言う名前を貰います。この時期は仲間からは瑞山坊と呼ばれていたと思います。それをそのまま芸名にしたのでしょうか。他の資料には立川松月と言う芸名を名乗っていたと言う資料もあります。稲荷新地の剣渡りの大夫は立川松月だったのでしょうか。

 天一の雇った下回りの手品師とはどう言った者なのでしょうか。当時、高知に今日でいうセミプロ奇術師の集まりがいたようです。プロのまねごとをしつつも、自分の名前で客を呼ぶことが出来ないため、天一のような看板にくっついて一緒に回る連中です。簡単に座員が集まったところを見ると、少なからぬセミプロがいたのでしょう。

 一方、秀はなぜ天一を見初めたのでしょう。恐らく秀は人を見る目にたけていた女なのだと思います。天一は晩年まで精力絶倫の男です。ましてやこの時17,8ですから、毎日欠かさず秀の相手をしていたでしょう。秀は十分満たされていたはずです。

 然し、それにもまして、天一の行動力を認めていたと思います。何しろ、わずか半年の間に、土佐に渡り、剣渡り大夫となり、手下5,6人を従えて一座の頭となってスターになってしまいます。愛嬌もあり、人として魅力があったのでしょう。並の芸人ではありません。秀の狙いは当たり、天一はいい仕事をしてくれています。陰囃子で三味線くらいは弾いて一座を助け、後は天一を相手に楽しんでいたのでしょう。

 

 天一は、高知を核にして、近隣の村々を回って興行していました。そのうち、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)、と仕事の範囲を広げ、一座の興行はかなり大掛かりになって行きます。その間に、座員の手品師から、棒呑み(30センチほどの鉄の棒を呑み込んでまた口から出す術)、火食い(火をつけた紙を次々呑んで行く)、火吹き(火食いをした後で、口から火の粉を出し、炎を吹き出す術)、など、いくつかの術を習い覚えます。これらはその後も天一の得意芸になります。

 こうして天一の若いころの舞台を調べて見ると、今日我々が考えるような奇術は全く演じていません。太古の昔から山伏や修験者が見せていた危険術などを得意としていたのです。後年、天一を西洋奇術の元祖と呼びますが、明治3,4年頃、10代後半の天一は、未だ近代の奇術を知らずに生きてていたのです。

 

 土佐を離れて興行するようになると、何度か、黒崎村も通っただろうと思います。そして唯阿上人を訪ねて行ったと思います。然し、唯阿上人は天一に合うことはなかったようです。妖しげな剣渡りの一座をしている甥に対して、決して良い顔はしなかったようです。天一はこの先、色々な仕事をする内に、戸籍を持たないことが災いとなってきます。両親のいない、戸籍も持たない無宿人の天一とすれば、何とか唯阿上人との関係を修復しておきたかったはずですが、それもままなりません。

 こうして、この先、海を越えて和歌山に渡りますが、ここで天一は人生最大の大失敗をします。これまで、全く誰からも芸を習わず、自己流でやっていたことに対する反動がやって来ます。その話はまた明日いたしましょう。

続く