手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 3

天一 3

指導の日々

 昨日は踊りの稽古に行きました、今日は生徒さんが二人来ます。舞台はありませんが、道具の修理をしたり、稽古をしたり、指導をして、日々過ぎて行きます。今は舞台の仕事は発生しませんが、5月以降にはいろいろ依頼が来るようになりました。ようやく光が差してきたようです。

 マジシャンの中には、余りに仕事がないと世の中から忘れ去られるのではないかと不安になる人があるようですが、確かに全くマジックの依頼が来なければ不安ですが、こんな状況がいつまでも続くものではありません。時期が来れば、我々の演技を求めている人から必ず依頼が来ます。嘆いていても幸せは来ません。あと半年の辛抱です。

 

天一 3

 ここで竹の子の岩吉と言う妖しげな男が出て来ます。なぜ竹の子なのかはわかりません。芸名でもないように思います。この岩吉は、浮かれ節と言う、浪曲の原型の芸能を語って諸国を回っています。恐らく神社や寺の境内などにある、葦簀の小屋掛けで、一文、二文と銭を貰って話を聞かせていたのでしょう。

 浮かれ節は今日、路上でヒップホップをしたり、ラップをしたり、ギターで自作の歌を聞かせるのと同じように、この時代の流行です。天一が片田村を通ると、岩吉が浮かれ節の会をすると言う張り紙があちこちに貼ってあります。天一は、ぐれ宿で何度か岩吉と一緒になっていて顔見知りです。

 そこで岩吉を訪ねて、「前座に使ってくれないか」と頼みました。天一は諸国を回る内に、色々な芸能を見て、自分なりに真似たり、仲間に語ったりしていたのでしょう。天一は、幼いころから、講釈本を読むのが好きで、伊賀越えの仇討ち、義士銘々伝、源平盛衰記などは諳んじていて、ぐれ宿などで夜の退屈な時に、仲間や泊り客によく語っていたのです。一方、岩吉にすれば、一人で会をするには持ちネタが寂しく、困っていたところでした。天一の申し出は願ってもないことで天一を使うことにします。

 岩吉は、独演会をするのに持ちネタが足らないまま会を開こうとしています。そして、まだ芸を見てもいない天一をいきなり使おうと言うのです。どう考えても岩吉は素人に毛の生えた程度の芸人です。

 会の当日、天一は、伊賀越えを語ります。すると思いのほか好評で、もっとやれとお客様から求められ、三席語ったそうです。三席も語れば、その晩の独演会の半分を天一が演じたことになります。岩吉がそれを許したとすれば、岩吉はろくな芸人ではありません。天一は、その岩吉から後で、「もう少し稽古をすれば金がとれるようになる」。と言われ有頂天になります。

 テレビもラジオもない娯楽の少ない時代はこうした素人芸でも通用したのです。岩吉にすれば決して天一の芸を褒めたわけではありません。「下手だ」。とも言いません。上手く使えば前座として役に立ちますから。話の流れから推測すると、「まぁ、まぁかな」。と言ったのでしょう。ところが天一はそうは取らなかったようです。プロである岩吉に褒められて、「自分には才能がある。金の取れる芸人になれる」。と、聞こえたのです。素人が勘違いしてプロになって行く典型的なパターンです。

 そもそも、岩吉そのものがどうにも素人です。阿波の片田村に住んでいるところからして既に素人です。その素人から少し褒められて、天一はもうプロ気分です。

 天一は、岩吉の家にひと月、ふた月逗留を決め込みます。恐らく岩吉とともに、近隣の村を幾つか回っていたのでしょう。

 

 そうするうちに、村に秀と言う女がいて知り会います。秀は加賀(石川県)金沢で異人の妾(めかけ)をしていました。それが年季を務め、300円か400円(1000万円~1200万円)の金を貰って国に帰ってきていました。この秀と仲良くなり、中津と言う町で家を借りて暮らすことになります。

 異人妾の秀、いいですねぇ、何とも文明開化を思わせる配役です。幕末から明治にかけて、日本は遅れた産業を取り戻そうと、有能な外国人を高額で雇って、知識や技術を習っていたのです。たまたま加賀藩に雇われた外国人の技師の妾となって、秀は何年か加賀にいたのです。それが外人技師が帰国をするにあたって、役所から手切れ金を貰ったと言うわけです。

 妾になるくらいなら美人でしょう。しかも金を持っています。そんな女と親しくなれば、もう芸道の修行どころではありません。天にも昇る心地で毎日遊んで暮らしていたのでしょう。そもそも天一はまともに芸の修行をしたことなどないのです。然し、既にいっぱしの芸人気取りです。但し、中津にいては講釈の仕事は来ません。どうしたものかと考えていると、そこへ土佐(高知県)から鰹節売りがやって来ます。

 鰹節売りが言うには、「土佐はこれまで関所があって、よそ者は入れなかったのだが、この度関所が取り払われて、誰でも入れるようになった。こんなところにいないで土佐に行ったらいい。金は拾うようなものだ」。と言います。

 土佐は特殊な土地で、日本が鎖国をしていた時代に、土佐は四国の中でさらに二重鎖国をしていました。一切他国の者を入れなかったのです。それが明治維新で解放されます。すると今まで閉鎖的な暮らしをしていて、見ることもなかった様々な品物や、芸能がいきなり入って来て、一遍に活況を呈することになります。鰹節売りの話を聞いた天一と秀は早速所帯を畳んで、土佐へ旅立ちます。何とも軽薄な夫婦です。

 

 決断の速いのは天一の長所ですが、未熟な芸に反省の色もなく、土佐に行けば食えると、安易な思いで夫婦そろって土佐に向かいます。淡路島から小舟で阿波(徳島県)に入り、まっすぐ南に歩いて旅をして、土佐との国境(くにざかい)にある野根山を越えをします。このあたりは今でも人が少なく、険しい山道です。まともな道があったのかどうかも分かりません。明治維新の頃なら全く人通りもない大秘境だったでしょう。ここを、坊主崩れの芸人と、異人妾の小粋な秀が山を這うようにして欲得尽くで土佐に向かいます。秀は背中に三味線でも背負っていたのでしょう。天一は17になったでしょうか、秀は7つ上の24歳です。二人の絵柄が目に浮かぶようです。

 土佐に入った先に赤岡と言う町があります。土佐の東にある太平洋に面した町です。ここに宿を取って、試しに宿屋の親父に会を打たせてもらえないかと相談してみると、親父は大喜びで座敷を貸すことを引き受けます。それだけでなく、近所の村々に声がけをして人を集めてくれました。町の人はみんな外の情報に飢えていたのです。ここで天一は連日会を打ちます。その様子はまた明日。

続く