手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ルーキー新一さん 1

年末正月の過ごし方

 今年の年末正月は、本を読んで過ごそうかと思います。先ず、先日紹介した、「日本奇術文化史」それに田代さんが訳した、ケン・ウエーバーの「マキシマムエンターテインメント2.0「」です。両著とも大作で、正月2日までで読み切れるとは思えませんが、楽しみに読んでみます。

 年末正月のイベントやパーティーは全く発生していません。こんなことは私にとっては生まれて初めてです。私の所は、手妻が中心ですので、正月のイベントは毎年、相当に忙しいのですが、まったく動かないのは困ります。しかし何を言っても無駄なことです。こんな時は充電をするのがいいのでしょう。次に挑戦するために知識を身に付けることです。

 勉強する時間がなければ、新しいことは出来ません。チャンスが来たとしても、駒がなければ、チャンスを生かすこともできません。この4日間はひたすら本を読んでみようと思います。

 

ルーキー新一さん 1

 先週、澤田隆治先生と話をした時に、「今、ルーキー新一を書いているんだ」。と仰っていました。「へぇ、今度はルーキーさんですか」。私の目からは、澤田先生のしていることはもの好きにしか思えません。と言うのも澤田先生は、今年の夏に、戦前、戦後に関西方面で大活躍したコメディアン、永田キングを調べて、380ページにも及ぶ大作を本にして出されました。

 関西ではエノケン榎本健一)と並ぶほどの人気を博したコメディアンだったそうで、戦後すぐに放送の世界に入った澤田先生からすると、永田キングさんは当時は超大物芸人だったそうです。然し、今では人の噂から消えてしまっています。そんな芸人に、なぜ自費をつぎ込んでまで本にするのか。澤田先生に尋ねると。

 「それは君と同じや、君が、松旭斎天一を書いて本にしたり、手妻の歴史を本にして出すのと同じで、仕事としてやったら割に合わんことや。でも、誰かが書かんと、歴史も、スターの功績も残らんのや」。

 そう言われて、澤田先生がなぜ私に懇意にしてくれるのかがわかりました。私と澤田先生には共通点があるのです。澤田先生にはコメディと言うジャンルを世間に認知させたいと言う願望があるのです。それは私がマジック界、或いは、手妻の世界を世間に認知してもらいたいと思う気持ちと同じなのでしょう。

 コメディ、喜劇は、いくら多くの観客を集めても、一世を風靡するような人気を誇っても、テレビで高視聴率を取ったとしても、終わってしまった後には何も残りません。

 せめてこういう芸人がいた、その人はこんな大きな仕事をしたと言う実績をどこかに書き残しておいてあげたい。澤田先生は、そうした思いから、多くの著述を残しているのです。

 それは澤田先生が、大学を卒業して、放送局に入って、たまたま与えられた仕事が、演芸番組や、喜劇の番組で、そこから多くの芸人を知り合い。「てなもんや三度笠」や、「スチャラカ社員」、「ごろんぼ波止場」などの驚異的な視聴率番組を作り出し、それによって、澤田隆治と言う名が日本中に知れ渡り、名プロデューサーとして今もテレビの歴史の中で語り継がれているがゆえに、縁あって知り合った芸人の名前を残す行為を、ご自身の仕事の集大生ととしてなさっているのでしょう。

 然し、澤田先生ほど大きな名前を持っている人であっても、死んだ芸人、人気の去った芸人を本にするのは至難です。恐らく本の買い手は少ないでしょう。芸能の文化史とはいっても、お笑いや、喜劇は一般の評価が低く、市町村の図書館などが買ってくれる可能性も少ないのです。多くの人は決して笑いや喜劇に対して、過去を振り返ろうとはしないのです。

 澤田先生は、「歌舞伎や能は人間国宝になる。笑いの芸はそれより評価が低いとされている、同じ笑いの世界でも、狂言は国宝が出る。然し、喜劇からは国宝が出ない。藤田まことも、森繁久彌も国宝にはならない。私はそれが残念なんや」。と言いました。

 

 その澤田先生の書いている、ルーキー新一さんですが、私はルーキー新一さんと晩年の5年間松竹演芸場でご縁がありました。晩年と言っても、ルーキーさんは44歳で亡くなりましたから、私が初めてルーキーさんに会ったのは、ルーキーさんが39歳だったのです。私にすれば20年も年上の人でしたから、全く意識が無かったのですが、ルーキーさんは39歳で既に芸能から弾かれていて仕事がなかったのです。

 私の親父は誰よりもルーキーさんの芸を買っていました。しょっちゅう二人で酒を飲んでいましたし、ルーキーさんの舞台は頻繁にカセットテープで録音をして、家で何度も聞いていました。「こんなにうまい芸人はいない」。といつも感心していたのです。

実際私もルーキーさんの舞台を舞台袖や客席の後ろで見るのが楽しみでした。これほど巧くて、人を引き込む力のある人を、東京に芸人から見たことがなかったのです。 と、話はどんどん進んで行きますが、ここで少し話を整理します。

 

 師は昭和10(1935)年、大阪に生まれます。子供のころから人を笑わせる天才で、当時のラジオ番組の「漫才教室」素人のチャレンジコーナーの常連だったそうです。ルーキーさんは実の弟の正児さんとコンビを組んで、子供のころから素人漫才をして、ラジオで沸かせていたのです。ちなみに正児は後のレッツゴー三匹のリーダー正児さんです。そしてその時番組を担当していたのが澤田先生です。

 澤田先生がコメディ番組に乗り出すと、学校を卒業して、そろばん塾の先生をしていたルーキーさんは、澤田先生に引っ張り出されて、番組に出してもらえるようになり、たちまち人気者になります。

 服の胸をつまみながら、「いや~ん、いや~ん」、と言う格好をするのが有名になり、一躍スターになります。昭和40年には吉本新喜劇の座長に収まります。然し吉本と仕事の面で対立して、ルーキー新一爆笑劇団を設立します。人気者の独立ですから話題になり、当初は大入りを繰り返します。そのさ中に、ルーキーさんは恐喝事件を起こします。

 詳細は不明ですが、一座が巡業中、旅館の風呂場を覗いていたファンがいたのを見つけ、座員とともに攻め立てて、金で和解をする話に持って行ったところ、それが恐喝に当たるとされて裁判で敗訴。芸能界を追われます。昭和43年のことです。

 それまでずっと大阪で活動していたルーキーさんですが、行く経知れずとなり、その後、昭和50年に、突然東京に現れます。浅草松竹演芸場で、ルーキー新一、ミッキー修と言うコンビを組んで漫才を始めたのです。ここから私や親父とルーキーさんとの浅からぬ縁が生まれます。その話はまた明日。

続く