手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

名人の話

 昨日(5日)、テレビ出演の仕事がきました。巧くまとまるといいと思います。仕事の少ない時に、依頼が来ると、希望が生まれます。仕事がない、収入がないといって、困った顔をしていても、いいことはありません。世の中はなるようにしかならないのです。自分の運命は天に任せて、自分はなすべきことをしていればいいのです。稽古をして、新作を練って、それで時間があったら遊んでいればいいのです。

 あまり悩み続けていてもいいことはありません。悩みと言うのは、結局、どうにも解決の付かないことを、繰り返し繰り返し、頭の中で巡っているだけで、同じ話が自分を攻め立てるだけです。そこからは何の解決策にも生まれません。そうならむしろ何も考えないほうが健康にいいはずです。

 同じ考えるなら、少しでも世の中がよくなることを考えるべきです。自分にとっても仲間にとっても、お客様にとってもいいことを考えるのです。ダメはいくら考えてもダメです。ダメから良くなることは何もないのです。

 

夢のお告げはどうなった

 先月の末に、私の親父が夢に現れた話をしました。私は死んだ人が夢に出ると、その一週間後から10日後の間に何か天変地異が起こると言いました。然し、今回も何も起こりません。「あれは親父ではなかったのか。親父でないなら、なぜ私は後ろを向いた人を見て親父と思ったのか」。よくわかりません。結局外れたことは事実です。お騒がせしてすみません。もう今後、夢の話は封印しようと思います。

 それでも、夢から強烈なインスピレーションを感じたなら、またお話しするかもしれません。今回、親父の画像はぼやけていました。鮮明な画像の夢を見た時に、もう一度お話しします。結局懲りていないのですね。

 

名人の話

 ここに上げる名人は、誰もが知っている人ではありません。私自身その人が誰だったのか、名前すらも思い出せないのです。まだ私が中学生の時でした。私はまだ子供でしたが、タキシードをこしらえて、マジックを演じて、小さなイベントに出演して、得意になっていました。でも技量も何もありません。ただ見てくれのいい子供でしたから、仕事がよく舞い込んできたのです。

 ある時、墨田区あたりの子供会に出演しました、子供ばかり50人程度の集まりです。小学校の教室でショウをしました。出演者は、私と、腹話術をする年を取った芸人さんでした。その時は相当歳の人かと思っていましたが、今になって思えば、今の私よりもよっぽど若い人だったかもしれません。

 私は楽屋であいさつをしましたが、その腹話術師は子供である私が見ても場末感のある芸人さんでした。痩せて無口な人でした。額には深いしわが幾つもありました。服装が、ガスの集金人のような、地味なオープンシャツに、これまた地味な上着を着ていました。こうしたなりを見ると、まだ私の親父はあか抜けていると思いました。学校の教室を楽屋にあてがわれ、広い部屋で、二人でセットをしましたが、この芸人さんは、部屋の隅に座って、人形を出して人形の汚れを拭いていました。もっと真ん中で作業をすればいいのに、特に私に話しかけることもなかったので、私も何も言いませんでした。

 ショウは隣の教室で始まりました。私が先に演じました。ショウが始まると、これが厄介な仕事でした、子供は仲間同士ですし、地元ですから我が物顔で、初めから大騒ぎです。主催者が制してもなかなかいうことを聞きません。勝手に歩き回ったり、私のテーブルの上の道具をいじったり、私の演じるマジックに野次を飛ばして、それをみんなで大笑いしたり、とにかく最悪の仕事場でした。

 それでも子供を上手くあしらう技術があれば、いい場を作れるのでしょうが、なんせ自分がまだ中学生ですから、そんな気の利いたことはできません。結局騒がれるだけ騒がれて、いじられるだけいじられて終わりました。

 そして次が、腹話術です。腹話術師は、上着だけ取り換えて、少し派手な衣装で出て来ました。椅子に座って、人形を膝に抱えゆっくり話を始めました。

 その間私は楽屋で道具をかたずけていました。心の中では不出来な舞台を悔やんでいます。子供にいじられて散々だったからです。こんな状況ではどんな人が出ても結局うまく行かないだろうと考えていました。然し、隣の部屋では子供がシーンとなって、腹話術の話を聞いています。そのうち、少しずつ笑い声が聞こえます。聞き耳を立てて聞いていると、そのネタは腹話術師がよく使うパターンのネタです。

「シンちゃん君は何歳なの」、「僕は6歳だよ」。「それじゃぁ小学校に行ってるの」、「うん勿論」。「勉強は面白いかい」、「面白いよ」。「なんの時間が楽しいの」、「給食の時間」。「おいおい、給食は勉強じゃないよ、他には」、「休み時間」、「休み時間も勉強じゃぁない、他は」「体育の時間」。「頭使わない時間ばかりだなぁ」。

 こんな調子のありきたりのネタでした。しかもゆっくりゆっくり噛んで含めるように話しています。こんなネタで今どきの子供が喜ぶのか、と思っていましたが、それが声を出して笑っています。この日は私と腹話術師で1時間のショウの予定だったのですが、私がうまく行かなかったために20分しか持ちませんでした。それを腹話術師は、40分演じ続けて、子供を飽きさせず。お終いには子供みんなが拍手をして終わりました。きっちり1時間のショウにまとめて終わりました。

 この時、私は生まれて初めて芸の力を目の当たりに実感しました。私が常々言う、「なんでもないことを何でもなく演じて、それでお客様が喜んでくれたらそれは名人だ」。と言うセリフはまさにこの年取った芸人さんに当てはまるものでした。

 この人が、演技を終えて戻ってきたときに、出る前より少し大きく感じられました。芸が人を大きくしたのです。然し、ほとんど無言で、上着を着替え、元のガスの集金人のような格好で、ちょっと私に挨拶をして去って行きました。実に謙虚な人で、地味で、か弱そうな人でした。「あんなに舞台で人を引き付ける力を持った芸人さんが、どうしてああまでつつましく生きているのだろう」。

 その時、14歳か、15歳だった私が見ても、「自分は決してああいうタイプの芸人にはならないだろう」。と思いました。「もっともっと自分を膨らませて、大きく派手に見せて生きて行ったらいいのに」。と思いました。舞台があまりに見事だっただけに、消えるようにして去って行った芸人の姿が哀愁を帯びていて、寂寥感すら感じました。今から50年前の話です。

 今こうして書いていても、芸って一体何だろうと思います。仮に人を超えた芸を身につけたのなら、もっと堂々と伸び伸び生きて行ったらいいのに、あの腹話術師の生き方はあまりに影が薄く、人に遠慮をして生きているかのように見えます。恐らく、芸の実力に比して手に入った果実はあまりに少なく、その生活は恵まれてはいないように思います。それでいいのだろうか。今考えても私には答えが出ません。私にはまだ腹話術師の境地に至っていないのでしょう。

続く