手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天一 2

天一

 玉ひで公演

 一昨日(16日)は、玉ひでの公演でした。初めが若手の演技で、前田は紙卵の手順。早稲田康平さんは、シルクや、ジャンボカードを使ったカード当てを演じました。今回から入った戸崎卓也さんはコーンとボール。これは珍しい演技です。こうした作品はこの先も是非残して頂きたいと思います。

 私は、傘手順をフルに演じ、その後、札焼き、おわんと玉、間に前田の金輪が入って、蝶で終わりました。この手順は私がイベントに頼まれたときのフル手順です。普通に演じて50分かかります。今回、お正月の初公演ですので、先ず、メイン手順を演じました。次回からは何作か差し替えて演じます。何にしても舞台に出る機会が少なくなり、こうして玉ひでに出ることが貴重です。この先もずっと演じ続けて行きます。

 

天一 2

 そもそも天一一家が世話になった阿波黒崎村の西光寺とはどこにあるのかと言うと、兵庫県、淡路島、徳島県とつながる高速道路が、四国に入ってすぐのところで、私は一度行ったことがありますが、今でも人が少なく、山がちで、向かいは鳴門海峡で、恐らく江戸時代なら、半農半漁、農と言っても殆ど米は取れないでしょう。多くは、塩田を作って生計を立てるような村だったと思います。

 天一は唯阿上人から厳しく学問を仕込まれたのですが、いかんせん狭い村の中で暮らすのは退屈だったのでしょう。悪さの限りをして、結果勘当されましたが、当人はむしろ大喜びで寺を離れたのだと思います。

 子供のころから人を驚かすことに好きな天一が、いかにして奇術師になったかと言うのは誠に興味ある話です。現代とは違い、奇術の情報は皆無です。黒崎村にいては、芝居も来なかったでしょう。ましてや手妻の一座など見ることもありません。天一は寺を離れ、引野村の安楽寺に身を寄せます。その近くに六坊と言う寺があり、六人の山伏がいて、村で狐が憑(つ)いた人があると、秘法で落としてやったりしていました。

 これは面白いと、天一は毎日出かけ、山伏の手伝いをしたりしてやがて仲良くなります。そして、印の結び方、狐落とし、剣伏せ、不動の金縛り、天狗寄せ、下馬落とし、などを学び、秘術の九字の呪文を習います。

 天一にすればこれで超能力を手に入れた気持ちになって有頂天です。早速、あれこれ試してみますが、どれもうまく行きません。村はずれの山に籠って、夜じゅう呪文を唱え、天狗寄せを試みますが、結局天狗は現れませんでした。

 これで真言の秘術は当てにならないことを知り、諦めたようです。それから先は、悪い仲間と共に、かすり、強請り、たかり坊主になって、村々を回って行きます。天一は、人生の成功を手に入れた後、半生を「新古文林」で語る中で、自ら強請り、たかりの話をあけすけなく話しています。何とも呆気羅漢とした性格です。

 葬式があると、押しかけて、死人が生前に来ていた着物をもらい受け、それを質屋に流して、酒や肴に替えたり、大きな家に上がり込んで修行僧を装い、寄付を求めたり、およそ世の中に役に立たないようなことばかりをして日々を送っていました。

 それが災いしたのか、讃岐(香川県)に行くと、ひどい下痢に罹り、身動きできなくなり、ぐれ宿(安い木賃宿)で寝付いてしまいます。仲間は看病もせずいなくなり、一人で不安に襲われます。「きっとこのまま死ぬんだ」と思い、「そうなら最後に経を読もう」。と、普門品(ふもんぼん=観音様を信仰するお経)を連日唱えていました。すると、村の人が伝え聞いて、

 「あのぐれ宿に泊まっている坊主は、まじめに毎日経を読んでいる」。と、天一を認めてくれて、様々な食べ物を差し入れしてくれたのです。それを食べると、すっかり下痢は収まります。つまり、ろくなものを食べないで酒ばかり飲んでいたから下痢をしたのでしょう。

 ここで天一が、普門品(ふもんぼん)を熱心に読んだと言うのがキーワードになります。日頃悪さをしていても、しっかり修行した証を見せれば、人は認めてくれるのです。ところで、普門品と言う、観音様を讃える経をなぜ天一が熱心に唱えていたのかと言えば、観音様とは天一にとっては亡き母親、音羽のことなのでしょう。

 

 天一は8歳で死別した母親のことを生涯忘れることが出来なかったようです。天一は、後に、音羽と名乗る手妻師に弟子入りして、自らも音羽を名乗ります。そればかりか、娘や、弟子にまで音羽の名前をつけます。

 貧困の中でろくな食べ物もなく、医者にも見せず、衰弱して亡くなって行く母親を、8歳の天一はどうすることもできず、ただただ現実を眺めながら悲しみに暮れていたのでしょう。その後も悲しみは消えることはなく、気持ちを紛らわすために、たかり坊主となってからも普門品を唱えることを忘れなかったのです。

 これが幸いして、普門品によって村人から命を助けられます。天一は、これを観音様のお陰と感謝して、お礼参りを思い立ちます。

 

 江戸末期に、「観音霊験記」と言う、一種の旅行マップが販売されます。これは西国三十三カ寺が詳しく書かれており、どうも天一はこの本をどこかで見て、そのルートに沿ってお参りを考えたようです。四国を出て、播州兵庫県)の書写山丹波の穴王寺(けつおうじ)、あちこち回って、京都に入ります。

 このころ、京都では、西国の大名が倒幕で兵を上げ、次々と街道を通って京都に入り宿はどこも満員だったようです。そもそもかすり坊主が人にたかって旅をしていたわけですから、まともな宿には泊まれません。やむなく霙(みぞれ)の降る中を葦簀(よしず)囲いの掛け茶屋で夜を明かし、余りの寒さで死ぬ思いだったと書いています。

 私は、「新古文林」のこの場が好きです。世間のごみのような生き方をしているニセ坊主が、おりしも明治維新に遭遇して、次から次とやってくる西国の侍の行列を眺めながら、凍える思いで葦簀の中で必死に耐えて夜を明かす姿。葦簀から眺めた明治維新が、天一にはどう映ったのか、興味が尽きません。後の世に名を成す人でも、若いうちは、どうしようもない生活をしているのです。そして、その暮らしの中から何を見て学ぶかが、その人の人生を決めるわけです。

 この時が明治維新なら、慶応4(1868)年。天一15歳です。

 とにかく天一は、美濃の谷汲(たにくみ)までお参りをして、それから来た道を戻って、帰路、淡路島に行きます。淡路を超えればそこは黒崎の西光寺です。無論勘当されていますので、寺には戻れません。近くには仲間もいたことでしょう。仲間を頼って何か仕事を探そうと考えたのでしょう。

 ところが淡路島の片田村(淡路島の西南)に竹の子の岩吉と言う、名前を聞くだけでも怪しい仲間が住んでいました。この岩吉と再会することで天一の人生は大きく変わって行きます。竹の子の岩吉や、この後出て来る異人妾(いじんめかけ)のお秀など、世の中の底辺の人間が次々出て来て、読んでいてワクワクします。その話はまた明日。

続く