手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

深井志道軒 1

深井志道軒 1

 

 昨日は、コロナ禍の中で出演場所がないと嘆いていないで、出る場所がなくても何とか出られるところを探して、生きて行ったらいい。と言う話をしました。然し、冷静に眺めてみて、コロナがある、ないに関係なく、大きな流れでいうなら、この半世紀だけを見ても実演の芸能は、どんどん仕事場が減っているのが実情です。

 私の20代までは、浅草に国際劇場がありました。そこは3500人も入る大きな劇場で、そこではレビューや、歌謡ショウが開催されていました。私が中学生のころ、初代引田天功さんがここでリサイタルをして、水槽脱出をしたのを見ています。

 有楽町の駅前には日劇と言う円形の大きな劇場があり、そこでも日劇ダンシングチームがレビューを演じていました。私が18歳のころ、レビューの間のアクトでアメリカ帰りの島田晴夫師が傘手順を演じて、あまりの面白さに何回も見に行った記憶があります。

 この時のメインショウは、金井克子さんで、島田さん見たさに金井さんの歌も何度も聞き、しまいにはそらで歌えるほどになりました。先年大阪のパーティーで、金井さんと同席したので日劇で何度も拝見したと言う話をするととても喜んでくださいました。無論、島田さん見たさに行ったとは言えません。

 赤坂にはコルドンブルーと言うシアターレストランがあり、小さいけれど高級な店で、レビューとショウが毎晩行われていました。

 その他、寄席や演芸場、東京宝塚の5階には東宝名人会と言う演芸場があり、演芸場なのに赤いじゅうたんがロビーに敷かれていて高級感がありました。そこは落語や漫才、奇術が演じられていました。

 新宿にはコマ劇場があり、ここは歌手の芝居が毎月催されていました。3000人も入る大劇場なのですが、有名な歌手になるとここを昼夜二回、一か月間。自分の看板でお客様を集めたのです。つまり月に15万人以上の観客を動員して見せたわけです。

 この劇場を美空ひばりさんは毎年、3か月も公演していました。一体どれほどお客様を持っていたのか見当もつきません。そのころ歌舞伎町のメインストリートを歩いていると、毎日何台もの観光バスが連なって入ってきて、噴水の広場でお客様を降ろしています。バスの入り口を見ると、群馬県だの茨城県だのと書かれていて、バスから大勢のお客様が楽しそうに出てきてはコマ劇場に入って行きます。それが連日続きます。私のような大して歌謡曲に興味のない若者でも、この光景を見ると、いかに美空ひばりさんの人気がすごいかを思い知らされます。「あぁ、今の自分ではたった一日ですらにコマ劇場満杯にすることも出来ないなぁ」。とため息が出ました。

 それでもいつかここをいっぱいにして見せようと思うことは大切です。目標があれば努力もします。然し今は、そうした劇場はありません。武道館や、埼玉アリーナはありますが、かつての劇場のわくわくするような構えや雰囲気がありません。

 生の芸能を見る楽しさを何とか残したい。発展させて多くのお客様を集めたい。そう思っているさ中のコロナウイルスですから、全くダブルパンチです。でもどんな形であれ実演の灯を消さないようにして行かなければいけません。

 

 深井志道軒

 入院中に少しお話ししましたが、江戸時代中期に活躍した講釈師、深井志道軒の本が数年前に出ていて、それを病院で読みました。志道軒は、生涯浅草の三社様の近辺で、葦簀(よしず)の小屋を張り、道行く人に20文の銭をもらって講釈を聞かせていたのです。

 言ってみれば大道芸人です。しかも人気が出てきたのは50歳を過ぎてからのことです。江戸時代の50歳は、今の80歳に匹敵するでしょう。もういつ寿命を終えてもおかしくない年齢です。それが80過ぎまで講釈を語り続けて、講釈場を連日満杯にし、江戸の名物と呼ばれ、江戸見物に来るお客様が必ず見に来る場所となったのです。わずか20文(今日の金額で500円)ではありますが、100人詰めれば5万円、3回演じたなら15万円です。葦簀とは言っても屋根はあって、天気に関係なく語ることができたようです。しかも、夜には大名屋敷や、金持ちの座敷に呼ばれプライベートに講釈を聞かせていたのですから。語りの芸人としては江戸一番の稼ぎを上げていたでしょう。

 

 志道軒は江戸の有名人でしたから、いろいろな人が書物にして書き残しています。志道軒は延享8(1680)年京都郊外の貧農の家に生まれ、12歳で寺に入り、栄山という名前をもらいます。頭が良く、仕事もできたらしく、のちの大僧正隆光に可愛がられ、江戸に出て隆光の寺である護持院で、納所(なっしょ=会計)職を務めました。僧として順調な出世をしていたのです。

 大僧正の隆光は、5代将軍に引き立てられて、飛ぶ鳥落とす勢いだったそうで、神田橋外にあった護持院には方々の大名から付け届けが山のように来て、とても裕福な寺だったそうです。そこの会計担当ですから、役得も多く、この時期に秘かに財産をため込んだようです。ところが享保2(1717)年に護持院が火災でそっくり焼けてしまい、それから大僧正の運が下って行きます。

 そのころ栄山(志道軒)は実入りが多いことを幸いと、堺町の芸者を受け出して秘かに所帯を持ちます。無論、僧が所帯を持つことは違法です。いろいろあって結局ばれて寺を追い出されます。ところが志道軒は少しも困りません。長年ため込んだ財産があるため、余生は何もせずに暮らして行けると踏んでいたそうです。

 ところが、使用人と芸者の女房がその金を盗んで駆け落ちしたことで、転落の人生が始まります。

 普通の人なら人生を終えてしまう40代の末に、寺を追われ、財産を失い、果ては願人坊主(がんにんぼうず=強請たかりで生きている偽坊主)にまで落ちて、乞食にまでなってしまいます。この時、たまたま浅草の講釈場で霊全と言う講釈師に出会い、霊全から講釈を習うことになります。

 元々志道軒は学問のある男ですから、弁が立ち、知識もあり、その上、色事でしくじったくらいですから洒脱なところがあって、志道軒の語る講釈は無茶苦茶で面白く、たちまち人気が出てきます。その無茶苦茶な講釈がどんなものだったかは明日詳しくお話ししましょう。

続く