手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

スライハンドはなぜ売れぬ

雑用と稽古

 大きな舞台がすむとまた、企画書を書き、稽古をし、道具の修理をしています。

 6日にはテレビ撮りがあります。詳細はまた後日お知らせしますが、二本をまとめて撮るそうで、撮影に、まる24時間かかります。どんなふうになるかわかりませんが、大仕事です。放送日はお正月の予定です。詳しいことが決まったらお知らせします。

 

 その翌日(7日、8日、、9日)、には富士、名古屋、大阪の指導があります。そのための小道具をそろえることと指導のための稽古を、今日、明日にします。

 

  来週、14日15日には猿ヶ京でマジック合宿があります。これも道具をそろえておかなければなりません。私の指導は、個々の受講生で、それぞれ習うものが違います。10種類のマジックを教えるなら、私が10種類のマジックを隅々まで知っていなければなりません。習う方は真剣です。私が曖昧な指導はできません。いつも身を引き締めて指導していますが、時々忘れます。一度抜けてしまうとなかなか出て来ません。年齢がそうするのでしょう。そのため予習が欠かせません。

 

 更に、11月15日夕方6時に、NHKのBS で、クールジャパンと言う番組があります。そこで手妻が紹介されます。手妻の歴史から、作品、そして背景に語られているストーリーに至るまで、かなり手妻に時間を割いて解説されています。この手の番組はまさに私の出番です。古い歴史から手妻を語れる人は今の日本にはいないのです。いや、知っている人はいても、舞台を体験し、古い手妻師と楽屋を同席していた人はもういません。私から話を聞かなければ全ては闇のかなたに消えてしまいます。つまり私は生きた化石のようなものです。NHKさんも私を貴重品扱いしてくれて、お陰で今回は私の顔が長く画面に映ることになるでしょう。ご興味ございましたらご覧ください。

 

スライハンドはなぜ売れぬ

 スライハンドはマジック界では人気の種目です。学生のマジッククラブなどはほとんどがスライハンドを種目として稽古をしています。

 実際、スライハンドや、クロースアップマジックは演じていて充実感があり、やって楽しいものです。なぜ充実感があるかと言えば、それは正味自分の技で不思議を作り出せるからです。カードにしろ、ボールにしろ、その素材自体にはほとんどトリックやギミックがありません。マジシャンの手わざによって、出たり消えたり、変色したり、様々な不思議が起こります。これが見る人には魔法に見えます。演じる側も、マジシャン自らの技で魔法が作れる。と言うところが面白いのだと思います。

 実際よく考えられたスライハンドの演技はとても不思議です。しかもそれを独自の世界を作り上げて滔々と見せられると、まさに芸術の世界です。

 島田晴夫師の、カードの後半、両手から次々にカードが出る演技を見ると、私はなぜか涙が出ます。晩秋の銀杏並木で、枯れた銀杏の葉が次々に初老の男の肩に降りそそいでくるような風景を思い浮かべ、理由もなく寂寥感にとらわれます。

 ノームニールセン師の、バイオリンのアクトが、布の上で、バイオリンを浮揚させ、さて、そろそろかたずけようかと、弓を取り除いた後に、バイオリンがピチカートで演者にささやくところも、切なく悲しく、涙が溢れます。「もう少し一緒に遊んでいたい」。とバイオリンが縋(すが)ります。あの一瞬でニールセン師は、お客様が一生忘れられない演技を瞼の奥に焼き付けるのです。

 スライハンドは特別色々な道具を使いません。舞台上にはせいぜいテーブルが一つあるのみです。テーブルの上も大した小道具もなく、至って質素です。その分、マジシャン個人が大きくクロースアップされ、マジシャンの魅力を最大限にアピールすることが出来るのです。スライハンドは演者が芸術家になれる要素を多分に秘めています。

 そうなら、マジック界に、もっと、もっと、優れた芸術家が出て来てもよさそうなものですが、なかなか手わざの演技を超えて、芸術を語ることのできる人が出て来ません。私はイフェクトや、トリックにこだわるマジシャンよりも、芸術家に出会いたいのです。しかしそうしたマジシャンに出会うのは至難です。

 つまり芸能芸術を語れるマジシャンが出るためには、どんなマジックを演じるかではなく、誰が演じるか、なのではないかと思います。マジシャン自身の目指すレベルが高くないと、単に器用なマジシャンで終わってしまうのだと思います。そもそも意識の高い人が奇術界に入ってこない限り、芸術的なマジックには出会えないのでしょう。

 

 と、ここまでお話しして、いきなり下世話な話になりますが、私が子供のころ、或いは、20代になっても、マジックの定番は、夫婦者のマジシャンが、鳩やカードを出し、鳥籠を一瞬に消して、その後に喋りネタを一つ二つ演じ、お終いは、奥さんを使って、ヒンズーバスケットや竹の棒の浮揚。ジグザクボックス。人体交換箱。と言った大道具を一つ演じて終わる。と言うパターンがマジックの主流でした。

 鳩、喋り、ヒンズーバスケットで15分から20分の手順、これはマジックの王道ともいえるもので、日本中の何十人ものマジシャンがその手順で生活していたのです。今考えたならそれで生きて行けたのですから幸せです。

 私が10代、20代の頃は、マジシャンの数が少なく、仕事の数が圧倒的に多かったものですから、上手い下手を語る以前に、マジックができると言うだけで仕事が来て、マジシャンは誰も大忙しでした。マジシャンにとっては夢のような時代でした。

 彼らはこうしたマジックを演じることに何ら悩みはなかったように思います。少なくとも自分がこの先、活動して行く30年や40年はずっとこのパターンでやって行けると考えていたでしょう。

 

 然し、なぜこのパターンが飽きられたのでしょう。

 その後マジシャンは、各セクションに分かれて活動をするようになり、イリュージョン、トークスライハンドなどと、セクションによって住み分けが進みました。然しその中で、スライハンドは、一般の仕事先を手に入れているでしょうか。マジックの理解者ばかりを相手にする活動に甘んじていないでしょうか。無論、そこで十分生きて行けるならいいのですが、理解者のみを相手にして生きていけるでしょうか。生きて行けないなら、マジシャンはどこを目指そうとしているのでしょうか。

 明日はそのことを書いてみたいと思います。

続く