手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

入門許可状

入門許可状

 

 一昨日(25日)、高橋朗磨君が入門しました。朗磨君は2年前から私の教室で手妻とスライハンドを勉強して来ました。群馬に住んでいて、私のお稽古は10時から開始しますが、恐らく朝7時くらいに家を出るのでしょう。休まず遅刻せず続けて来ました。

 お父さんは日本人で学校の先生。お母さんはロシア人です。日本語を普通に話します。見た目は多少白系に見えます。一つ年下の弟がいて、入也君と言います。入也君も一緒に教室に通っています。

 朗磨君は、今年、大学入試で、日大芸術学部に入学しました。18歳です。私の一門は、通常、大学を卒業してから入門するのが常なのですが、よく考えてみると、それで行くと、いろいろ不都合が生じます。

 つまり大学を卒業して、4年後に入門するとなると、それから弟子修行3年半を務め、名取試験を受けて、名取になります。名取になれば一人で舞台活動が出来ます。これで舞台人として生きて行くことは出来ますが、その後、3年半、活動の様子を見て、師範試験を受けることになります。師範になると弟子を取れます。そこまで行って初めて一人前のマジシャンとして認められます。

 師範に至るまでの道は、私はほとんど関与しなくてもいいのですが、それでもいくつかの作品を指導しなければなりません。とすると、11年後に正式に私の元から独立して、一人前になることになります。

 私は今68歳ですから、朗磨君の卒業時に私は79歳になってしまいます。それまで寿命があればいいのですが、仮に寿命があったとしても、果たして指導できるかどうか、10年先のことは怪しくなります。私自身の活動時間を計算すると、もうこの先、そうそうは人を育てられないところに来ています。

 そこで、大学の授業の合間に私の仕事を手伝うことにして、ひとまず入門を認めることにしようと考えました。

 と言うわけで、昨日入門を認め、入門許可状を渡しました。当人の誓約書、保証人、後見人の署名捺印を持参のうえ、保証金を支払った上での入門です。私はこれから3年半、朗磨君を指導して行かなければなりません。

 正直言って、大学を卒業してから入門する弟子と比べると、まだまだ人間が成長していません。まるっきり遊びの世界にいます。この人を一人前の手妻師にすると言うことは簡単ではありません。それでも来月から早速手妻の稽古を、毎週一回朝9時から致します。また、鳴り物(鼓、太鼓)と、日本舞踊の稽古も始めます。

 長い弟子修行の始まりです。

 

 マジックで弟子を取ると言うスタイルを継承しているのは、今となっては私だけになってしまったようです。手妻にとって徒弟制度は絶対に必要なことです。弟子と言うのはマジックのやり方を教えることではありません。種仕掛けを教えるだけなら簡単なことです。教えることは種仕掛けではないのです。趣味でなさるならそれでいいのですが、プロとしてこの道のトップに立って活動して行くには、種仕掛けを買って覚えるなどと言う方法では手妻師は育たないのです。

 無論、DVDのマジック指導と言うものがあってもいいですし、小道具の販売も大切です。全く何も知らないアマチュアさんに、マジックに親しんでもらうには、手軽に手に入る道具の入手は有り難いものです。

 例えば、お寺さんでも、参拝に来た人に、常に仏法の奥義を教えることはあまり意味がありません。初めはおみくじを引いたり、お札を買ったり、破魔矢を買ったりして、遊び気分でお寺に親しんでもらうことが大切なのでしょう。

 マジックも、ネットなどでDVDやグッズを買ってマジックを覚える時期は必要なのです。然し、それでプロが育つかとなると、むしろそうした活動はプロの道を妨げてしまいます。マジックで生きて行くと言うことは、知識や道具を集めることではなく、特定のレクチュアービデオの指導家の作品を覚えることでもありません。

 そうした活動は、言ってみればマジシャンごっこに過ぎないのです。初手に何かにすがってマジックを学ぶことは大切でも、どんな種を買おうともそこに自分がマジシャンとして生きる道など示されていないのです。

 自分が何をしなければならないかは、誰と出会うかで決定します。自分自身の心の奥にある曖昧模糊(あいまいもこ)としたものは、まるで雲を掴むようなものです。どんな考えも曖昧では役には立ちません。それを具現化させるには、最も考えの近い、知識ある人から学ばなければ形にはならないのです。

 それも、ただたくさんのことを知っていて、それを当人が咀嚼することもなく、不可解なアレンジを加えたものを指導するような人についていても役には立ちません。芸能芸術の本質を知る人から習わなければ、間違いの幅はどんどん広がってしまいます。

 良く、「人皆師(ひとみなし)」と、言いますが、師は誰でもいいわけではなく、学ぶ側が審美眼を持っていなければ人を師とは思えないものです。

 

 同時に、指導する側のマジシャンは、自身の持っている知識や考え方を誰に託すかによって、指導家の将来、その死後までも決定します。広い意味で、マジック、手妻の世界を将来も維持継承して行くためには指導は欠かせないのです。

 私は、「師となって弟子を取るべきかどうか」、と問われれば、「弟子を取るべきだ」。と答えます。なぜなら自分自身の寿命には限りがあるからです。自身の寿命を終えた後も、マジック、手妻の考え方、作品、奥にある知識を伝えて行けるのは弟子以外いないのです。

 但し、弟子を持つべき指導家は、残さなければならないものを持っている人に限ります。どうしても将来に残さなければいけない考え方や、演技、型、仕掛け、タネ、などを持っている人なら、それは真剣に継承を考えるべきです。

 芸能は、お金では決して手に入らないものです。それは互いの信頼によってしか継承されません。私自身、多くの先生から信頼を得て、託されて習って来ました。又、私自身の工夫もいくつかあります。私の技術、私の知識と称しているものは、実は先輩からの借りものです。それを次の人に譲らなければなりません。それらを一対一でしっかり伝えて行かなければなりません。

 これまでも何人かの弟子を育てて来ましたが、今又、もう一人育てなければなりません。結局、一生人を育てることになってしまいました。

 うまく育つかどうかはわかりません。それでもこの道に入ることに胸を膨らませて入門して来ました。どうぞ温かい目で見てやってください。

続く