手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 14

 このところ「母親のこと」を早くにまとめたいと思うあまり、日常のことが記録から漏れています。実は今、大阪のホテルでブログを書いています。毎月の関西の指導の3日目です。

 12日は、富士の指導。このところ参加者も少ないのですが、来る会員さんはとにかく熱心です。富士では先週発表会を終え、弟子の前田がゲスト出演しました。前田は年上の女性に受けがいいため、富士の中ではアイドルです。皆さんの評判は良かったのでまず安心しました。

 その晩は8時に岐阜駅で、峯村さんと、辻井さんと待ち合わせです。いつもの通り、柳ケ瀬の料理屋へ、この晩は「DEE胡麻」と言う店で、名前も風変りなら、出す料理も独創的です。ここの亭主が変人で知られていて、お客様の好みもはっきり分かれるそうです。然し、こだわり抜いた料理は食べる価値は十分にあります。実は私はここは2度目です。今回は前日に亭主が富山まで買い出しに行ってたそうで、富山の海産物をふんだんに使った料理でした。まるで懐石料理にように小さく持った品々は酒好きにはちょうど良く、サバ、ぶり、タイ、の刺身は身はわずかですが、絶品にいい素材でした。

 なんと言ってもラストに出てきたハマグリの雑炊が忘れられないほどいい味でした。大きなハマグリと、ぐつぐつに煮た米と、縁に固まったおこげのバランスが良く、それらがほのかな塩味でまとまっていて、何のことはない粥なのですが、出汁をすすりながら三千盛りを呑むと、こんな幸せがあるかと思わせるような深みがあとから上がってきて、亭主が偏屈であろうと何だろうとまた来たくなりました。

 そのあとはお決まりのグレイスです。この晩は、ママは黒を基調にした単衣の着物、チーママは卵色に秋草をあしらった明るい単衣、いつもいいセンスです。大垣弁のロシア人はいませんでした。いないと寂しい人です。いつもならわんさかお客様で賑わっているお店も、このところのコロナの影響で、ようやく半分ほど、それでも知られた店ですから、お客様は途切れません。

 しっかり飲んでホテルに、このまま寝るのも寂しいと、峯村氏と部屋で一杯。くだらない話が思いのほか盛り上がって、ゲラの峯村氏は深夜に笑いっぱなし。こんな晩があるのも楽しい人生です。

 辻井さんは翌日、峯村氏から昨晩に盛り上がった話を聞いて、悔しがることしきり、一緒にいたかった、と後悔しましたが、ご心配なく、また来月にはとびっきりくだらない話を用意しておきます。私は辻井さんは本当にいい人だと思います。

 

 翌日13日は名古屋の指導。夕方に新幹線で大阪へ、そして今は、14日の明け方、こうしてブログを書いています。今日は大阪の指導です。そして、10月3日のマジックセッションのために、指導終了後にスポンサーへの挨拶まわりに出かけます。今日も一日中休みがありません。でも充実の日々です。

 

 母親のこと14

 母は、三郷と言う新興住宅街にある老人介護のマンションに入って、4階の日当たりのいい広い部屋に収まり、毎日何の不自由もなく生活していました。恐らく母の人生の中で最も快適な住まいだったと思います。高円寺から三郷はかなり離れていますが、週に一回出かけて、車椅子を押しながら近くのスーパーマーケットまで行き、母の食べたい果物やお菓子を買いに行きます。これが母の楽しみでした。私は無論スーツ姿です。

 別にここで果物を買わなくても幾らでも施設で食べられるのですが、母は80を過ぎてから、糖尿病のことを忘れて、お菓子や果物を食べまくりました。「もう80を過ぎたから、食べたいものを食べるよ」。と言いました。兄も、「食べたいならそうさせたほうがいいだろう」。と言いますので、好きなように食べさせました。母はそれらをとてもうまそうに食べます。年取った体ですから、いくら食べても1000円分も食べられませんが、「あぁ、おいしい、なんておいしいんだろう」。と言って喜んでいます。

 

 窓辺に椅子を置いて、日向ぼっこをさせていると、昔、母が話していた蓮月のお婆さんが、廊下で日向ぼっこをしている姿を見て、「自分にあんな幸せそうな人生が来るのだろうか」、と言っていたのを思い出しました。母に、「どう、昔言っていた蓮月のお婆さんのような気持になれた」。と聞くと。「お前はよく覚えているねぇ。そうそう、あの気持ち、自分がそうなってみるとやはり気持ちいいよ」。と満足していました。

 私は母に、「今までで一番楽しかったことは何」。と尋ねました。私は家を買ったこととか、親父が出版してパーティーをしたこととか、私が芸術祭に受賞してパーティーを開いたこととか、ハワイに一緒に行ったこととか、私が世界大会を開催して、高円宮(たかまどのみや)殿下、妃殿下をお迎えして、マジックを観劇したときに、殿下の脇に両親を座らせたこととか。そんなことを言いだすのかと思ったら。

 「お前が幼稚園の時に、あたしが編み物をしている脇で、歌を歌ってくれたこと」。と言いました。確かに幼稚園でお母さんの歌を習って、家に帰ってすぐに母親の前で歌を歌ったことは覚えています。

 「お母さん、お母さん、お母さんたらお母さん、何にもご用はないけれど、なぜだか呼びたいお母さん」。他愛もない歌ですが、私が一生懸命になって歌う姿が忘れられないと言いました。

 「それだけ?他には」。「初めて家でとんかつを揚げた時に、兄とお前が本当喜んでとんかつを食べている姿を眺めていた時」。何のことはない、日常の生活の一コマを何十年も自分の気持ちの中で思い続けていたのです。

 生涯、芸人の父親と私を支え続けて、表に出ることのなかった人でしたが、良く面倒を見てくれました。然し、この時、一つ気がかりなことがありました。兄が、

 「来年には私は70だし、お前も63だろう。母親は体が丈夫だよ。この先母親が10年も20年も長生きしたときに、我々は支え続けられるだろうか。自分の体さえどうなるかわからなくなるのに、母親の面倒はどうしたらいいのか」。

 言われてみると、自分が徐々に年を取ってきていることに気付きませんでした。確かに今は何とか面倒を見ることはできても、10年先のことはどうなるか分かりません。これは大変な時代になったと自覚しました。

 丈夫な母でしたが、何でもかんでも完璧に面倒を見てくれる施設と言うのは結構体には良くないのかもしれません。入居して8か月で、急に母の体が衰え始めました。そして一か月して亡くなってしまいました。随分呆気ない終わり方でした。89歳の死ですから、涙を流す者もなく、親戚だけでつつましく葬儀をして済ませました。

 先月墓参りをして、塔婆を立てました。できることはわずかですが、感謝を忘れないことが私の務めと思っています。

終わり