手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 13

 話が弾んでたけちゃんの登場になってしまいましたが、たけちゃんことは、論創社から、「たけちゃん金返せ」。と言う本を2018年に出しました。結構評判よかったので、よろしかったらそちらをご覧ください。

 ここでは母のその後について書きます。私は舞台に立ちながらも日本大学に進みます。正直私は大学に行きたいとは考えてはいませんでした。然し、母は何としても私を大学に行かせたかったようです。7つ年上の兄は明治大学商学部に行きました。そして私は日大の商学部です。母にすれば、大学に行かせて、簿記の資格でも持てば何とか生きては行けると考えていたようです。親心は有り難いとは思っていても、実際マジックで身を立てようと考えている身としてはどうでもいい話です。

 とにかく大学には行きましたが、当時は、キャバレーの仕事が忙しく、朝学校を出る前に、道具と衣装を新宿のロッカーに入れて、鳩6羽を入れたバスケットだけ持って学校の授業を受けました。鳩は昼過ぎになると部屋が暖かくなって気持ちがいいらしく、大きな声でクックルーと、鳴きます。すると教授が、天井あたりを見て、「どこかに鳥が巣を作ったのかなぁ」。とつぶやきます。私はずっと知らん顔をしています。

 授業が終わると、キャバレーに直行します。このころの出演料は一日2回出演して8000円くらいでした。事務所に所属していましたから、毎月、7日分とか10日分、月末に貰いに行きます。勤め人の月給が3万円くらいの頃でしたから、8万円は学生にとっては十分すぎるくらいの収入です。このほかに、演芸場に出演したり、仲間から依頼されたパーティーや、小さな仕事が幾つもありましたから、毎月15万円近い収入になりました。全く昭和40年代のマジシャンは、生活不安のない時代でした。仕事のほうが多くて、芸人の数が足らない時代でしたから。

 そんな仕事をしていては、会社勤めをして簿記をしようとは考えません。マジシャンを捨てる気持ちは全くなかったのです。しかし母は、わずかな希望を持ってそれを見ていました。そこで、私ははっきり母親を諦めさせようと考え、東京の松竹演芸場と、名古屋の大須演芸場で、20日間かけて、親父の芸能生活35周年記念と、私の改名披露をしようと考えます。

 それまでジュニア南だった名前を、手妻で生きて行けるように藤山新太郎と改名しました。芸能事務所の関係者や、お客様を招いて披露目をしたのです。昭和52年。大学4年のことです。

 これで母親はすっかり私を勤め人にすることを諦めました。既に兄が三菱系の会社に勤めていましたので、あわよくば私もどこかいい会社に入れたいと考えていたようです。しかし、私と親父は幼い時から仲が良かったものですから、芸能に行くのは自然の流れでした。

 この時すでに、後の女房になる和子さんと付き合っていました。和子さんは早稲田大学の露文科に行っていました。いつかは結婚しようと考えていましたが、そのためには、マジックの世界でどうにかならなければ無理だと考えていました。仕事は恵まれていましたが、キャバレー仕事が忙しいというのは自慢にはなりません。何か形ある成果をつかみたいと考えていました。

 そんな中、毎年、ロサンゼルスのマジックキャッスルに出演していたのですが、そこでマジックオブザイヤーのビジティングマジシャンと言うショウを貰います。毎年マジックキャッスルに出演した外国のマジシャンの中で一番良かったマジシャンを投票します。それに選ばれたのです。1981年と、翌年の82年、二度の受賞です。

 この賞状が届いたときに、「あぁ、これで何とか生きて行ける」。と実感しました。そこでその年に結婚をしました。私の仲間のマジック関係者、親父の仲間のお笑い芸人を集めて、赤坂ヒルトンで300人を集めて式を行いました。媒酌人は鎌倉井上蒲鉾の社長、牧田高明氏。乾杯は当時の参議院議員コロムビアトップ師匠。祝辞はたまたま日本に来ていたジョニートムソーニ氏を小野坂東さんが連れて来てくれました。仲間のマギー司郎ナポレオンズ、先輩の北見マキ師、松旭斎すみえ師、皆さん来てくださってとても賑やかなパーティーでした。母も、とても喜んでいました。

 

 私は上板橋の近く、常盤台にマンションを買います。上板橋の家は親父と母の二人だけになってしまいました。然し二人は幸せだったようです。母はその後も、私の舞台があるときは欠かさず見に来てくれました。なんのかのと言っても私の舞台を応援してくれていたのです。

 親父が平成9年に癌でなくなります。母は8年間看病していました。看病と言っても、その間、親父は癌漫談と言うものを始めて、結構忙しく活動していました。講演先に母が付き添っていました。私が仕事が開いているときは私が車で送迎していました。

 私が付き添った時には、親父は高円寺の私の家に泊まります。そこには幼稚園に行っている孫のすみれがいます。親父にとってすみれは恋人でした。土産の名探偵コナンの単行本を買って渡すときにも、孫の顔を見ないで渡します。孫が本を見て喜ぶ姿を、時々ちらりと様子見して、それで満足しています。孫に「ありがとう」、と言われると、下を向いてにやにやしています。この時の親父は人生で最高に幸せな時だったと思います。すみれと一緒に寝るのが何よりも幸せだったようです。

 その親父が亡くなり、母は、長らく看病をしていたため、何とか世の中のために役に立とうと考えたようで、今度は区役所のボランティア活動をするようになります。病人を病院まで送り迎えをしたり、知的障害の児童を学校まで送り迎えをしたり。それはそれで充実した日々だったのだと思います。

 然し平成27年くらいから、母は奇妙な行動をするようになります。夜中に冷房が利かないと言って、警察を呼んだり、呼吸が苦しいと言って救急車を呼んだりしました。

 病院で調べても呼吸に何ら問題はないのです。何かあるたびに私は舞台の現場から飛んでゆきます。パーティーや座敷の仕事のさ中でも病院まで直行し、そのあと上板橋の交番に謝りにゆきました。舞台の帰りですから、着物に袴姿のこともありました。そんな恰好で上板橋を歩いている人はいません。正装で謝りに来た私に対して、警察官は恐縮していました。上板橋の駅前の警察官とは馴染みになってしまい、申し訳なくて、その都度、たい焼きや、饅頭を買ってゆきました。

 このころ私は、毎週二回上板橋に行っては昼めしを作り、母と話をしていました。高円寺と上板橋は車で15分です。食事を作って、一緒に食べて、3時間で帰ることが出来ます。母は私の作った食事を喜んで食べていました。いつも、「あたしが長年教えた味をお前はよく受け継いでいる」。とか何とか言って、食べています。鍋などを食べても、「うん、このつゆの味は私の味だ」。等と勝手なことを言っていました。

 しかし、余りに奇行が続くために、このままでは周囲の者が疲れてしまいます。私は兄と相談をして、老人施設のマンションに入ってもらうことにしました。母は初めは上板橋から離れることを嫌がっていましたが、いよいよ自分で身の回りのことが出来なくなると、素直に従ってマンションに入りました。

続く