手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと

 私の母親は栄子と言い、3年前に89歳で亡くなりました。生まれつき病気が多く、常々自分は長生きできないと言っていましたが、どうしてどうして、三姉妹の末娘で、三人とも長寿を全うし、その中でも母親が一番長生きをしました。

 母親は戦前は日本鋼管と言う大きな会社で経理をしていたと聞いています。横浜の上大岡に住んでいて、そこから銀座にある会社に毎日通っていました。昭和17年くらいのことと思いますが、時代はアメリカとの戦争の最中で最悪の状況でしたが、当人は18歳ですから、毎日が楽しかったのでしょう。銀座で食事をした思い出や、横浜のグランドホテルで、海軍将校のダンスパーティーに招かれた話など、随分と聞かされました。

 日本鋼管は武器を製造している会社でしたから、当時はフル操業で、景気が良かったそうです。給料日には、大勢の従業員が給料を受け取りに来ます。従業員一人一人に月給袋を渡すのが母の仕事ですが、後で苦情が来ないように、母親の勝手な裁量で、いつも、2,3日余計に残業代をつけてやっていたそうです。そのため母親の経理で社員から苦情が来ることは一件もなかったと自慢していました。そりゃぁそうでしょう。

 真ん中の姉は横浜松屋デパートのナンバーワンと呼ばれていた美人でしたから、デートのお誘いが多かったのですが、母親は美人ではなく、どこと言って目立つ人ではなかったようです。然し、声が良かったため、歌を勉強すればきっと歌で食べて行かれる。と持ち上げてくれる人がいて、歌のレッスンに通うようになります。そのうち、この歌をどこかで披露する場所はないかと考えていると、私の父親に出会います。

 

 父親は当時東京計器と言う、メーターを作っていた会社で働いていて、ここも軍事物資を作っていましたので景気が良かったようです。然し、仕事のほうにはあまり気が入らず、もっぱら、一座をこしらえて、コントや、漫談、楽器を使っての歌謡ショウなどの番組を作っては関東近県の農村や、軍隊を回って演芸を披露していました。芸名は南健児と名付けました。当時は、日本軍は南方に進駐していましたので、南に向かう健康な男で健児です。

 但し親父は身長が足らなくて、徴兵では甲種合格はできませんでした。もっともそのお陰で戦後も生き延びたことになります。親父は小柄で太っていて、顔つきはどうと言うものではありませんでしたが、愛嬌があって、人に好かれる人でした。

 本来は、日曜ごとに慰問に出かけていたのですが、地方でも不便なところですと、出かけて行って、ショウをして、帰ってくるまでに、2日も3日もかかることがあります。そんな時には、会社に戻った際に周りの人に、卵や、小豆、コメや酒などを持ってゆくと、上役は何も言わずに欠勤をごまかしてくれたそうです。

 日米の大戦が始まると、急に生活物資が不足し始めて、米や小豆や卵は貴重品になったのです。父親は毎週慰問に行って抱えきれないほど、食料をもらって帰ってきますので、そのお陰で、父親の周囲の人たちには大変感謝されたようです。

 ある農村では、「村の外れに若い娘が集まるところがある」。と聞かされて、出かけて見ると確かに若い娘が5,6人いて、酒を飲んで歌っています。そこで一晩遊んで、翌朝、無蓋のトラックに乗って座員は駅まで送ってもらう途中、田んぼで田植えをしている農家のおばさんたちがいて、必死に手を振っていますので、車を止めると、みんな寄って来て、「また、村においでよ。一緒に遊ぼうよ」。と言います。後で仲間と、「この村にあんなおばさんの知り合いがいたっけ」。と話していると、昨晩の若い娘だと思っていた連中が、田植えのおばさんが化粧をした人だったと分かります。「えらいおばさん相手にしちゃったなぁ」。と後悔したと言っていました。

 当時の農村は、闇で食料を買い付けに来る人達がいて、農家はどこも潤っていたのです。米のほかに鶏を飼って、鶏肉や、卵を売ると、面白いように金になり、米も、麦も高値で売れたそうです。そのための農家はどこも金を持って居ましたが、農村では金の使い場所がありません。そんな時に、演芸大会などすると、学校の講堂が入りきれなくなるほどお客さんが集まって来たそうです。

 そして、泊りは近所の農家に分宿するのですが、どこも芸人を泊めさせたくて、芸人の奪い合いだったそうです。但し、コントで、金貸しの役をやって、村の娘を借金の型に連れて行こうとする役をやった座員は、「あんなひどいことをする奴は泊めてはやれねえ」。と言われて誰も引き取り手がなく、親父が「いやあれは芝居だから」。と言っても「いや、そもそも元が悪くなければ、ああまで性格が悪い役は出来ねえはずだ」。と言って引き取り手がなかったそうです。やむなく親父と抱き合わせで泊めてもらったそうです。

 夜は芸人の宿泊する家に近所の人が集まって宴会です。ギターを弾ける父親は、みんなの歌を伴奏してやると、当時の農家の人は涙を流さんばかりに喜んでくれたそうです。帰りには持ちきれない程の土産を持たせてくれます。まさに芸人天国の時代です。

 言ってみればアマチュアの演芸一座にだったのですが、人気があって、慰問の依頼はひっきりなしだったそうです。そんな一座に母親が入ってきます。母親は歌手として歌謡曲を何曲か歌うのですが、一座の中では大人気だったそうです。

 

 慰問は戦後も続いたのですが、父親が、仲間を集めて、スイングボーイズを結成し、東京吉本に出演するようになります。戦後、殆どの芸人は戦争に行っていて、まだ帰って来ていない時で、寄席や演芸場はタレントがいなくて困っていたのです。アマチュアのお笑い一座ではあっても、結構評判の良かった親父には、引き抜きが来たのです。

 そこで三人が楽器を持って、ジャズや、歌謡曲を演奏しながらお笑いネタをすると、たちまち売れ出します。昭和20年、終戦すぐ後のことです。そうなると、親父は一座を休みがちになります。

 そんな時に母親に縁談の話がきます。どうもこの話は半ば強制であったらしく、母親の意思などはあまり考えてはもらえなかったようです。相手先はその一帯では豪農と言うような裕福な農家で、そこの長男と結婚します。そして程なく男子を生みます。私の兄です。

 ところがこの跡取りは、全く仕事をしなくても生きて行ける身分のために、毎日遊び呆けていたそうです。子供が生まれてからは家に帰りもしなかったようです。相手方の両親が再三意見をしますが、根っからの遊び好きで、しかも金に不自由のない家ですから遊びは改まりません。両親は申し分けながって、数年後に結局離婚をします。

 母親にすれば望まない結婚をして、相手の都合で離婚をされたわけですから、世間の都合に翻弄されて傷心の思いだったでしょう。慰謝料を貰って、子供を連れて上大岡の実家に帰ります。上大岡としても、とんでもない婿を紹介した手前、母親には何も言えません。しばらく母親は子育てに専念して、仕事をせずに家にいたようです。

 この間も、恐らく父親と母親は手紙などで近況を知らせ合っていたのでしょう。父親は母親が、農家の婿と別れたのなら、戻ってきて、一座に入らないか、と持ち掛けてきたようです。母親は子供がいるために、あまり乗り気ではなかったようですが、実家で生活していても、いい思いはなかったようですし、出来ることなら実家から離れたかったのでしょう。しかも舞台に上がれば嫌なことも忘れられると思ったのでしょう。様子を見がてら、東京に行って見ることにしました。

続く