クジラ肉
私の親父(大正13年=1923年生)の話では、「昭和16年ころからものがなくなりだし、甘味屋も、寿司屋も、洋食屋も徐々に店を閉めるようになった。終戦時には飲食店は軒並み閉店。店で売っている肉も魚も、大福も、ほとんどなくなってしまった。でも、戦争中はまだ何かしら融通し合って食べる物はあったよ。本当にに困ったのは戦後から昭和24年くらいまでだなぁ」。
私は昭和29年生まれで、その頃にはもう食糧不足は無くなっていました。実際に飢えるということがどういうことかわかりません。
太平洋戦争(昭和16~20年)のさ中、日本はアメリカと中国と全面戦争をしたため、労働力のほとんどは軍隊に取られました。そのため、農村も漁村も都市も極端に労働者が減って、生産力が落ちてしまいました。
戦争が終わって、戦地から、民間人、軍人が続々日本に戻ってくるようになって、極端な食糧不足に陥ります。当時の軍人、民間人は合わせて600万人とも、700万人ともいわれています。国全体が戦争で疲弊しているときに、一度に人口が700万人も増えたわけですから、食料が不足するのは当然です。当時の日本国内の人口は1億人を少し切るくらいだったのでしょう。そこへいきなり7%人口が増えたわけですから、生活は苦しくなり、食料が極端に不足します。
戦後の親父は農村慰問をして、出演料の一部として、随分野菜やコメや小豆をもらい、一座全員がリュックに食料を詰め、東京に持って帰りました。大方は自分と家族が食べたのですが、時に大量の米や、小豆などをもらうと闇で売りさばいて、随分いい金になったと言っていました。
戦前も戦後も、農村や漁村は好景気で、都会が飢餓であえいでいるときに、農村は常に食料があって、都会から買い出しに来る人がたくさんいたため、農村は潤っていたそうです。
戦後、漁村では毎年豊漁を繰り返していました。と言うのも、戦争中に若者を兵隊に取られていたため、漁に出る回数が少なく、そのために魚が増えていたのです。船さえ出せば間違いなく大漁です。そうならすぐにでも漁に出たいところですが、戦争中に軍部に船を供給したため、どこの漁村でも船が不足していたのです。
そのため、借金してでも船を作って、若者を集めて漁に出た親方は大儲けをします。干物や目刺しにして、都会に持って行くと争うように売れたそうです。
大きな水産会社になると、大きな船を作って、クジラ漁に出るようになります。クジラは潮に乗って太平洋の各地に生息しています。クジラは30分に一度海上に上がって来て息継ぎをします。その時背中にある鼻の穴から潮を吹きます。一度クジラの潮吹く姿を見つけたなら、船は近付いて行き、次に潮を吹く機会をじっと待ちます。これがサインで、船はあがってきたクジラに近づいて、銛(もり)を打ち込んで捕まえます。
クジラは捨てる所がない。と言います。肉はすぐに冷凍して保管し、脂肪は鯨油として燃料になります。皮は、靴やランドセルになり、骨は砕いて石鹼になります。当時はシロナガスクジラなどの巨大クジラばかり狙って捕まえていましたので、一頭捕まえるとその価値はけた違いに大きく、南氷洋まで船団を組んでクジラ取りに行けば会社は一航海で大きな財産が築けたそうです。
私はクジラの肉をよく食べました。私だけではなく、この時代の日本人は普通にクジラを食べていました。肉屋で売っている肉も、牛、豚、鳥、ではなく、多くの店では、クジラ、豚、トリを売っていました。牛肉はめったに食べることが出来ず、肉と言えば安価なクジラを普通に食べていました。恐らく値段は鳥よりも安かったのでしょう。
肉屋ではクジラの肉だけが大きな塊で大皿に乗っていました。身は赤く、皿に血が滴っていました。一見グロテスクではありましたが、なかなか肉が食べられなかった頃はご馳走で、見ると食欲がわきました。
給食のおかずも、クジラ肉と野菜の炒めとか、クジラ肉の竜田揚げなど、普通に出て来ました。クジラの肉は、赤みの肉ですが、火に通すと黒い色に変わります。味は今考えると、熊や、馬肉に近く、悪い味ではありません。ただ、肉に筋が多く、なかなか嚙み切れませんでした。それでも肉が食べられることは有り難かったので、誰も文句を言わずみんな食べていました。
昭和30年代の日本の子供の成長を助けたのは、アジの干物であり、クジラ肉だったのです。鳥や豚肉が普通に食べられるようになったのは昭和40年代からです。
クジラ肉には、ベーコンと呼ばれるものがあり、なぜか母親はこの肉を頻繁に買って来て、よく食べさせられました。豚肉のベーコンとはかなり形が違い、脂身が豊富に肉にくっついていました。赤身が2割、脂身が8割などという極端に脂の多い肉でした。キャベツと一緒に野菜炒めにすることが多く、ベーコンの脂が強いため、フライパンに油をひくことなく、ベーコンをバラバラッとフライパンに撒いて、脂が染み出てからキャベツと一緒に炒めて食べていたように思います。
この肉は好き嫌いが激しく、給食でもよく女子が残していました。残す前に、私に「食べて」、と言って、野菜炒めの中のベーコンだけをくれる女子もいました。私は別に嫌いではなかったのでもらって食べました。然し、その後大人になって、だんだんとベーコンの脂身が鼻についてきて、ベーコンは食べなくなりました。
浅草に捕鯨船と言うクジラ肉の一杯飲み屋があります。昔から芸人の集まる店で、先代の親父が随分芸人を可愛がっていたため、私たちはお世話になった店です。ここの焼きそばには今も黒いクジラ肉が入っています。味は絶品です。刺身は、冷凍にしてカチカチに凍った肉に、にんにく醤油をつけて食べるのですが、これも文句ないうまさです。
かつてはクジラは安いことの代名詞だったのですが、今はなかなかクジラ自体が取れないため、高級魚並みの値段です。捕鯨船は小さく汚い店ですが、時々クジラの味を思い出すたび出掛けます。但し値段が高くなり、今ではとても浅草芸人が入って気軽に飲める店ではなくなっています。令和のクジラは貧しい芸人にたんぱく質を提供しなくなっています。
続く