手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

母親のこと 2

 話は昭和19年に戻ります。それまで親父は、川崎の旭町にある裏長屋に、両親と6人の兄弟と一緒に暮らしていました。祖父はブリキ職人で、腕が良かったらしく、若いものを何人か使って大きな仕事をしていたようです。然し長屋住まいです。

 当時、大都市では、だんだん空襲が激しくなってきて、東京の町で大きな家に住んでいる人がどんどん疎開してゆく状況にありました。家屋敷は人がいないと物騒です。空襲の際も消火をしてくれる人がいません。そこで大きな屋敷をタダ同然に貸していたのです。親父の一家はこれ幸いと大田区の池上に家を借りました。二階家で部屋数も多く、玄関の右側には洋間の応接室まであります。職人の頭とはいえ、洋間の応接間まで持っている人はまずいません。戦争のお陰で家族は一躍金持ち生活になりました。

 祖父はそこの一間を仕事場に使い、若い職人を集めて作業をしています。親父は、応接間を事務所にして、お笑いの一座を組んで、慰問に出歩いています。慰問は朝早くギターを持って出て行き、夜遅くに抱えきれないほどの土産を持って帰ってきます。当然、警察や、憲兵や、国防婦人会に目を付けられ、見とがめられます。

 憲兵も、警察も、親父は慰問の許可状を持っていますから、それを見せれば、それ以上咎められることはありません。問題は国防婦人会です。勝手に町内を見回って、「この非常事態に何をしているのか」。と、食ってかかってきます。これは苦労したそうです。こんな時代だからこそ人は笑いを求めているのです。そうした人に笑いを提供して何が悪いのか。彼女たちは、米や卵を渡すと、闇物資だと言って受け取ろうとしません。闇ではありません。農村の人たちが善意でくれたのです。然しそれを実証するものがありません。土産に領収書を求める芸人はいませんから。

 皆さんはこの話をどう思いますか。私は、昭和19年が、今のコロナウイルスの状況に酷似していると思います。私がショウを演じようとすると、「こんな時に何をしているのか」。と人が騒ぎ立てます。ショウを見に行こうとする人を周囲の人が「出かけるな」。とやめさせます。何をしようと大きなお世話です。芸人は芸能を演じなければ生きては行けないのです。それをショウを見たいと言う人に見せて何がいけないのですか。私は政府に金を求めているのではありません。ショウを見たい人にショウを見せようとしているだけなのです。コロナは危険だと言いますが、現実には、コロナに罹って死んだ人は1100人です。日射病で亡くなった人よりも少ないのです。東京が危ないと言いますが、私の周囲で感染者など一人もいません。感染しても殆どの人は症状もなく抜けて行きます。罹っても寝ていれば治るのです。

 それが恐るべきウイルスだと言って騒ぎ立てて、学校を休ませ、会社を休ませ、劇場を休ませ、レストランの出入りを制限しているいるうちに日本人はどんどん衰退してゆくのです。江戸時代にコレラが蔓延した時ですら、江戸では普通に芝居が行われ、通りには普通に物売りが出ていたのです。こんなことをいつまで続けるのですか。

 

 と、親父も世間を相手に叫んでいたのでしょう。何も、朝から晩まで国を思っていたところで、アメリカに勝てるわけではないのです。戦争は軍隊と軍隊のしていることです。周囲の人が何をしても役には立ちません。そうなら、軍人を慰問して喜んでもらえるという行為は、少しは国の役にも立っているはずです。と言っても、国粋主義者には、ギターを持ってばかばかしいことをしている人は非国民に見えるのです。

 祖父は、空襲であちこちの町が焼かれましたので、修繕に大忙しです。親父は慰問で大忙しです。そんな中に母親が歌手として入っててきました。やがて昭和20年に戦争が終わり、親父は吉本花月に出演するようになります。プロデビューです。ライバルが戦地に行っていますので、スイングボーイズは売れに売れます。

 戦争が終わってしまったので国防婦人会はいません。戦争中に、慰問の金がたくさんたまったので、その金で、今の一座を経理から、役員まで決めて組織にしようと考えます。実際自分が舞台が忙しくて、慰問が出来なくなってきていたのです。そこて新聞に座員募集の広告を出すと、何百人も人が集まったと言います。母親はそこの経理を担当して、組織を手伝います。この時、他の一座のように、研修生制度を作って、授業料を取って指導すれば今頃一財産を築いていたのですが、親父はそんなことは考えません。みんな仲間にして、酒を飲み、餅菓子を配っていたのです。

 

 一時一座を離れていた母親は、昭和25,6年頃また戻ってきます。ところがこのころになると、色々な問題が起きます。先ず、寄せ集めに慰問団の仕事が激減しています。もう、プロの芸人が活躍し始めていますので、仕事場が減ってきていたのです。

 親父の一家は住んでいた家を体よく追い出されます。職人の家族にただ同然で貸し続けていては、大家もやって行けないのです。やむなく近くの小さな借家を借りて住んでいました。スイングボーイズも、親父と、三枚目役をしている人見あきらさんがうまく行かなくなり、解散になります。親父は、他の仲間と脱線ボーイズをこしらえます。これもかなり売れて、忙しく活動していました。

 やがてテレビ局が開局し、親父はテレビ出演をするようになります。母親と一緒に暮らすために、池上に借家を借ります。もうこの先は結婚をするほかはありません。然し、母親は父親の稼ぎを見て驚きます。貯金がほとんどなかったのです。稼いだ分だけみんなに撒いていたのです。そうこうするうちに子供ができます。それが私です。

 母親は、結婚は了解です。然し、きっちり式を挙げたい。家も引っ越したい。お産に費用もかかる。兄が小学校に上がらなければいけない、そのためにも子供が生まれるまでに30万円がないと結婚はできない。と言います。至極もっともな話です。昭和29年のことです。勤め人の月給が1万円取れなかった時代の30万円です。

 すべてまっとうな話ですが、親父にすれば無理難題です。親父に金はありません。親父は、子供をおろして、母親との関係を解消するほかはないかと諦めかけます。そんな時に奇跡が起きます。

続く