手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

古代のマジック 2

 秦から唐に続く散楽(幻戯、百戯、散楽と続く)の歴史は、個々の芸能の内容は多少変わって行っても、歴代皇帝は芸能を守り続けて行きました。恐らく宮廷内に、スカウトマンがいて、巷で優れた芸人がいると聞くとすぐに見に行って、よければ年間契約をしたのでしょう。芸人の側からすれば、あちこち放浪して見せて回ることの非効率さ、天気に左右される観客の不安定さなど、日々の苦労を思えばお抱え芸人のほうが生活は楽なはずで、何としても宮廷に認めてもらいたかったでしょう。

 スカウトマンからすれば、皇帝が、飽きの来ない程度にメンバーを変えることも必要条件だったはずです。丸抱えだと芸人は努力をしなくなりますから、適宜に演者の差し替えなどを行っていたと思います。

 

探湯(くがたち)

 前回もお話ししたように、古代のマジックは、今日でいう危険術の類が多く、火渡りは前回書きましたが、他にも、刃渡り(刀の刃の上を歩く)、焼けた鉄の棒を握る、

 熱湯の中から石をつかむ、探湯(くがたち)、探す湯とかいて「くがたち」とはなかなか読めません。しかしこれは古代では頻繁に行われた術です。鍋の中に小石を入れ、水を入れ、鍋を火にかけて水を沸騰させます。そこに手を入れて、小石を握って掴んでくる術です。修験者などが今でもこれを演じます。これにも仕掛けがあります。

 手を湯に突っ込む前に、小さな袋の中に雪を入れておいて、袋の中で手を良く冷やしておくのです。いざ湯に手を入れるときに、間際まで雪で冷やしておいて、いきなり手を湯に入れて石を握って出せば、火傷はしないと言うものです。理屈はわかりますが、本当の大丈夫なのかは分かりません。

 

 変獣化魚術(へんじゅうかぎょじゅつ)

名前は物々しいのですが、言ってしまえば交換改めの総称です。周囲をお客様に囲まれ、テーブルも使えず、スチールやロード(お客様に気付かれないように道具を盗み取ってくる、或いは、ばれないように他の物を持ってくる技法)の未熟な時代は、布一枚使って、物を隠したり出したりするうちに、周辺に隠しておいたものを密かに持ってくると言う技法が頻繁に行われていました。

 古い草鞋(わらじ)に布を掛け、呪い(まじない)をして布を取ると子犬に変わる。あるいは、鉢に水を張り、笹の葉を数枚浮かせて布を掛け、さっと取ると、笹が小鮒数匹に変わっている。等、草鞋が犬に変わる場合は変獣。笹が小鮒に変われば化魚。です。変獣化魚は交換改めの総称です。交換改めは、例えば、紙うどんなどはその原型がよく生かされています。今日でも普通に使われている優秀な技法です。

 

 さて日本政府は奈良に都を建設し、唐の様式を真似て政治から、仏教から、芸能に至るまで、唐の一切を取り入れようとします。芸能も、度々中国に行った遣唐使の若い僧や、役人から、「中国の芸能はすごい」。と言う話を聞かされていたのでしょう。そこで、散楽の諸芸一切を取り入れようと、唐の宮廷と交渉をして、優秀な芸人を招聘して、指導を乞うことにします。

 奈良以前に散楽の芸能が日本になかったのかと言うなら、それはかなり古くから、伝わってはいたのでしょう。前述の修験者などが山から降りて来て、山で修業した成果を村人に披露するときなどに、火渡りや、刃渡り、探湯などを行ってはいたのです。これらの術は、修行僧などが中国に行った折、仲間や、巷の芸人から習ったのでしょう。

 然し、奈良の政府が求めていたのは、個々の作品ではなかったと思います。むしろ、衣装から、音楽から、演出から、宮廷風に高雅に作り上げた唐の様式の芸能が欲しかったのでしょう。つまり、似たような術を行う芸人は日本にもいたでしょうが、およそ巷の芸人たちは音楽から、衣装から、演出まで工夫すると言う発想は、持ち合わせていなかったのでしょう。

 中国から散楽の指導家がいつ日本に来たのかは明確な資料はないのですが、続日本紀に、天平7(735)年、聖武天皇が中国から来た散楽一座を見たと言う記録があります。

散楽一座をわざわざ日本に招いた理由は、ショウを見るためではないはずです。明らかに、日本人に散楽を指導をしてもらうのが目的でしょう。

 

 奈良の政府はかなり本気で散楽を育てようと考えます。先ず芸人はすべて国家公務員として、給料で抱えられます。そのセクションは、治部省(じぶしょう) 雅楽寮uta

りょう) 散楽戸(さんがくこ)です。治部省とは今日でいう自治省でしょうか、雅楽寮とは、散楽戸ができる以前から、雅楽が先に国に抱えられていましたので、雅楽の下部の組み込まれたのでしょう。そこの散楽戸です。寮とは今日の役所でいう局でしょうか、戸とは、課でしょうか。

 何分、芸人だけでも30人くらいはいたでしょう。それを管理する役人、興行する場所の日程を仕切る役人、衣装方、道具方、更には衣装、道具の製作部門まで、すべて合わせたら50人はいただろうと思います。それだけの人数を国が丸抱えしたと言う歴史は、この以前にも、これ以後にもありません。現代で考えても、芸人がこれほど手厚く扱われたことはないのです。

 

 ここで日本の芸能は大きく飛躍を遂げます。先ず作品そのものの数や幅が広がったこと、更に、どう教えるか、どう習うかという指導の仕方が明確になったこと。そして断片的に入ってきた作品の全体像が見えたこと。そのメリットの大きさは計り知れないものがあります。

 ここからは推測ですが、日本の芸能で、一子相伝等と言って、子供や、出来のいい弟子にのみ芸を伝えようとするシステムなどはこの時中国から伝わったのではないかと思います。その伝え方も、口伝(くでん)と称して、文字に残さない。口伝えで教えると言うやり方もこの時受け継いだのだと思います。

 それから、この時代は、綱渡りと、曲芸、マジックなどと言う技が、専門職として分かれていません。綱渡りをする人がマジックもし、踊りも踊り、漫才もし、楽器演奏もしていたのです。とにかく修行は一通りみんなが同じように学んだのです。

 このことは、今も、曲芸の世界が、三味線を弾き、踊りも踊り、軽口(漫才)をし、獅子舞もし、曲芸をするのと同じことです。能の世界も同様で、仕舞(能の舞踊)をし、脇(脇役)をし、鼓を打ち、謡(うたい、語り)をし、全て能に関することをみんなが学ぶのと同じです。日本の古典芸能で、一座を持って動いていた人たちは、何かあった際にはすぐに役が代われるように、みんながすべてを学んでいたのです。

こうした芸能の学び方は、中国から指導家が来た時に学んだのでしょう。以後、日本の芸能は、指導方法を守り継いで発展して行きます。

 

 さてこうして、和製の散楽一座ができると、日本国内の催事や祝いごとの際に一座が招かれ、各地で芸能を披露することになります。天平勝宝4(752)年の大仏開眼法要での散楽の披露もその一環として演じられたわけです。

続く