手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

アバンギャルドな邦楽

 今日(8月22日)は月に一回の、人形町玉ひででの公演です。お座敷ですが、椅子席に作り替えて、びっしり詰めると40名入ります。然し、コロナの影響がありますので、20名限定にしています。舞台のスペースもしっかりとれていますので、手妻も、スライハンドマジックも、問題なく出来ます。今回はほぼ完売状態です。

 お客様も、どこに座ってもゆっくりご覧いただけます。食事は有名な親子丼ですから、申し分ありません。お食事付き、5500円です。但し食事は前日までにお申し込みの方のみです。当日は食事なしの、ショウの入場料のみになります。その場合は2500円です。但し、予約なしでお越しになると入場できない場合もあります。

 ここを定着させて、出来れば毎週土曜日はマジックショウにしたいと思います。弟子の大樹も、月に一回、玉ひでで公演を始めました。あと二人、ここで自主公演をするマジシャンがいたなら、週に一回のマジックショウは達成できます。マジシャンはほんの少しやる気を出して、ショウを企画すれば自主公演はできるのです。出る場所がないと言って嘆いていないで、まずは自分の力で人を集めることです。

 そしてこんな時こそ、新しい作品をこうした場でどんどん出してゆくことです。作品を作り溜めて、次の時代に備えるのです。何もしなければそのまま時代に取り残されるだけなのです。仕事の少ない、今こそ次の時代に備えるべきなのです。

 

アバンギャルドな邦楽

 能を見ても、歌舞伎を見ても、邦楽はよくわからない、ただ古いことを言っているだけに聞こえる。と言う方が多いようですが、確かに古いことは随分古い作品が多いのですが、邦楽も、幾多の危機を乗り越えて、その都度、優れた芸術家が現れて、その時代その時代のお客様に喜ばれる芸能とは何かと模索をして、時代を先取りしたアバンギャルドな作品をたくさん作ってきました。そのお陰で今日の芸能に至っています。

 前に、奈良の政府に丸抱えしてもらっていた散楽一座が、奈良政府が瓦解したときに、外に放り出されたとお話ししました。軽業や手妻の一座、当時コントをしていた、今日の、能、狂言の原型と言える一座などは、野に出て、田楽(でんがく)や、猿楽(さるがく)の一座をこしらえて、農村慰問を始めたり、ある者は、寺や神社の庇護を受けて、日常は寺社で祈祷をしたり、お札を販売する仕事を手伝ったりして生活をしつつ、秋の祭りの時期になると、日本中の寺社の末社、末寺を、一座で巡り歩いて、お札を売りつつ、芸能を見せて収入を得るようになります。

 彼らは、田楽や猿楽などであちこちを回っているうちに、三番叟に見るような、神事の舞を披露します。三番叟は、雅楽では三番目に演じる舞であるために三番叟と呼ばれます。主にまだ若いものが舞台の慣らしに演じる舞なのですが、烏帽子をかぶって、鈴を持って鈴を振りながら舞を舞います。この鈴の振り方が、畑に種を撒く姿そのもので、一粒万倍(いちりゅうまんばい)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願って踊る、めでたい踊りなのです。

 この三番叟は、江戸時代になっても、歌舞伎の一番初めに踊られました、寄席、演芸の世界でも、毎日ではなかったようですが、めでたい時とか正月になると、初めに三番叟を踊って、それから落語や、漫才をすることがあったそうです。

 その三番叟のリズムと言うのが、タ、ポン、(ホウ)、ポン、スポポン、(イヤー)タ、ポン、(ホウ)、ポン、スポポン、という単純なリズムを繰り返します。これは奈良時代以前から続く古いリズムだと思いますが、個性的で、三番叟のみに使われます。これを三番地と呼びます。我々が鼓や太鼓を習う時に初めに勉強するのがこれで、まず三番叟がしっかりできることは太鼓、鼓の稽古の初歩なのです。

 私の所の弟子は、大樹も、前田も毎週一回太鼓と鼓の稽古をします。三番叟が出来たからと言って、人前で演奏したり、踊ったりすることはありません。然し、千数百年前のリズムを学んで、それを会得していると言うことが、手妻を演じる時にふと見せる芸の厚みになって行くのです。種仕掛けを知っている、などと言うこととは次元の違う話なのです。

 

 能も、散楽を追われて、田楽に行ったり、猿楽に行ったりしているうちに、その時代その時代のリズムを取り入れて、また新しいストーリーを取り入れていくうちに今日の能になって行きます。そもそも能が能と呼ばれるようになったのは明治時代です。それまでは猿楽と呼ばれていたのです。平安時代から続いて来た芸能集団の呼び名が、いつしか、演劇集団の呼び名に変わっていったようです。

 能も平安時代はコントのような滑稽な作品もたくさんあったようです。実際、宮中の催しで、卑猥なコントをしたために出入り禁止になったと言う記録があります。その後長いことコントの一座は宮中に入れなかったようです。そこまで顰蹙(ひんしゅく)をかったコントのネタがどんなものなのか、残っていたならぜひ見てみたいものです。それが、室町期になって、観阿弥世阿弥が現れるに及んで、歴史をモチーフにした重厚な作品が生まれて来ます。そして、今日の能の形式が作られてゆきます。

 能は、基本的には、前と後の二段の形式で演劇が完結します。前は、生きているものが過去を語り、後は、霊が現れて過去を語ります。この流れがわからないと、いたずらに同じことを繰り返しているように見えますが、ここが日本の芸能の巧妙なところで、同じ事件を現代人(室町時代の現代人)と、かつて現場にいた霊(平安、鎌倉時代の武将など)に語らせることで、弁証法的に、立体的に話が解き明かされてゆくのです。

 この独特な世界を能では幽玄と呼びますが、能の世界で霊は人を驚かしたり、たぶらかすものばかりではなく、自然に現れては現代人と過去の真実を語って行くものなのです。時に霊の語りは、その時の恨みや悲しみであったりするのですが、それが語っているうちに納まって行きます。いわば能のテーマは鎮魂なのでしょう。

 歴史は変わり得ないものですし、恨んでも数百年前のことはもうどうにもなりません。然し現代人がその悲しみを聞いてやることによって、魂の怒りを鎮めてやるのです。実に日本的な解決方法です。言ってみればこの演劇は、何も起こらず、何も変わらないことを語り合って、話は終わって行きます。

 ただ、怒りや悲しみを聞いて同情することが目的なのです。このあたりのことがわかって来ると、能の奥深さに気づいて、面白く感じます。次回は、その演劇から歌舞伎に移行してゆくお話しをしましょう。

続く