手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

手妻が語る世界

 明日、人形町玉ひでで公演があります。毎月一回の公演が定着してきて、このところ観覧希望者が増えています。有難いことです。玉ひではご存知と思いますが、軍鶏鍋(しゃもなべ)の専門店です。260年間同じ場所で、ずっと軍鶏鍋を出してきました。

 それが、明治時代の頃、料理人のまかないとして作っていた親子丼をお客様に出したところ、大人気となりました。然し、玉ひでとしては、あくまでお店は軍鶏鍋がメインですので、親子丼は昼の内だけ出しています。

 その親子丼を食べようとお客様は長蛇の列を作ります。時には2時間待ちと言う状況になります。確かに、玉ひでの親子丼は、味のしっかりした軍鶏肉が濃い目のだしで味付けされ、ふわっと柔らかい卵と合わさって独特の親子丼に仕上がっています。

 然し、いくら美味いと言っても、これ一杯を食べるために2時間並ぶと言うのは、人生の選択の分かれ道と思います。そこで、待たずに食べられる方法として、私の手妻を見ることでゆっくり、座敷の雰囲気を楽しんで、江戸の芸能を見ながら親子丼を食すのはいかがかと、手妻と親子丼の企画を考えたのです。幸いこれは当たっています。

 どうぞ、ご覧になりたい方は、お申し込みください。今日夕方6時まででしたら、予約を受け付けます。当日申し込みは、お食事は付きません。また、満席の際は入場できない場合もあります。悪しからずご了解ください。ご予約は、03-5378-2882

 

手妻が語る世界

 手妻が、或いは、手妻師が手妻を演じることで、どんな世界を作り上げようとしているのか。いわば手妻の本質について少しお話ししましょう。

 手妻は、古くは散楽(奈良時代以前からある芸能集団)から始まり、放下(ほうか、地方を回って芸能を見せる集団、または個人)。その後江戸時代に手妻、手品、となって興行してゆく一座になり、大きく発展をします。

 時代、時代によって、演じられていた場所や、見せ方も違いますので、手妻の全てが同じテーマで語られるわけではありません。奈良、平安の頃の手妻は、手妻とは言わず、目くらましと呼ばれ、多分に呪術的な要素の強いものでした。代表作は、

 植瓜術(しょっかじつ、土に種を植えると、すぐ芽が出て、弦が伸びて、大きな瓜

     がたくさん生る)

 式神(紙でこしらえた人形がひとりでに歩き出す。縄の切れ端や、箸がひとりでに歩

     き出す。)

 変獣化魚術(へんじゅうかぎょじつ、変化術の総称で、草鞋を笊に入れると、子犬に

     変わる。鉢に水を張り、笹の葉を何枚か撒いて布を掛けると、笹が小鮒に代

     わる。等)

 総体にこの時代は、超能力のような演出をして、生命のないものに生命を与えるような芸能を演じていました。また、演者自身も超人であるように見せるために、

 火食い(燃えた紙を食べる)

 火渡り(焚火の上を素足で歩いてゆく)

 刃渡り(刀の刃の上を素足で歩いて見せる)

 等の超人技を見せたりもしました。この時代は、危険術も、マジックも一緒くたで、人にできないことイコール目くらまし(マジック)だったようです。超人技を見せるというのは、そこでお札を売ったり、祈祷をしたりするためであり、狐落としの呪いが目的で、呪い師の実力を見せるために超能力を見せて信用させて呪いにつなげたわけです。危険術は、手妻がエンターティナーになったのちもずっと続いてゆきます。

 

 そのうち、手妻には種も仕掛けもあるのだと開き直って、不思議をショウとして演出する芸人が現れます。ここからマジックのエンターティナーが始まります。それが室町末期の頃で、演技に囃子が付いたり、囃子に合わせて振りが付いたり、ストーリーが付いたりするようになります。

 考えてみれば、不思議を演じるために、音楽を流すというのはおかしなことで、曲に合わせて踊りながら不思議を見せるなどと言う行為は、それだけで超能力者ではないと公言しているようなものです。超能力者が音感がいい必要はなく、カウントに合わせて踊れることが超能力者の条件ではないはずなのです。ましてや、演技の途中にギャグを挟むなどと言うことはあってはならないことで、ギャグなど言ったら不思議の要素が薄れてしまいます。しかしこうした矛盾が、矛盾とは言われなくなる時代がきたのです。

 それが室町時代で、この時代から人々は、嘘を嘘と知りつつ芸能として楽しむ人が増えて来たのです。それは一つは貨幣の普及が大きかったと思います。人が普通に貨幣を使うようになると、街中に銭を払うことで芸能を見せる場所が出来て来ます。銭で芸能が売り買いされれば、そこに質を求められるようになります。観客の見る目が育ってきて、同じ不思議でも、観客はギャグの多いほうを喜んだりするようになります。

 またもう一つは、宗教からの解放です。宗教と言うものがどうも妖しいもので、堕落した坊さんの生活などを見ているうちに、必ずしも、宗教が幸せを約束してくれるものではないのではないか。と言う疑問が生じると、来世の幸せを願うよりも、現世の快楽を持求める人が出てきます。すなわちこれが興行の始まりです。

 室町末期ごろから、エンターティナー的な手妻の道具が普及し始めます。緒小桶(をごけ)、などと言う、3本の筒から物の出て来る道具などはこの時期から流行ってきます。その演技は正に後世のマジックそのものです。

 江戸時代の初期に、縄抜けの名人の興行と言うものが出て来ます。縄で手妻師をがんじがらめに縛るのですが、簡単にほどいて抜け出して見せます。これだけなら10分とかからない見世物ですが、縄抜け名人は、ここにストーリーを作ります。取り手に追われた盗人が、取り手に囲まれ大立ち回りをした末に捕まって、縄で縛られてしまいます。そこからまんまと抜け出して逃げて行くストーリーですが、これが受けて、京の四条河原でロングランのヒットをします。

 ストーリーのあるマジックは今日では珍しくはないのですが、1600年代にストーリーを作って、入場料を取って興行していたというのは世界的にも珍しく、ヨーロッパでは19世紀に至っても、マジシャンは呪術から抜け出せず。ショウとしてのマジックが発展していなかったことを思うと、日本のエンターティナーは相当に早くから発展していたことになります。

続く