手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

火渡りの術

 古代のマジックの中で最もポピュラーだったものに火渡りの術があります。但し、この術が、ヨーロッパにあったものかどうかは分かりません。東アジアからインドくらいまででよく演じられていたようです。火渡りは今日の感覚で言うなら危険術であり、当時も超人として尊敬を受けるような技です。

 薪を幅1m長さ10m程度に並べ、火をつけて、さんざん燃やした後、そこを修験者が呪文を唱えて素足で歩いてゆきます。炎は下火になってはいますが、近づけば熱は伝わってきますし、炭状になった薪は素足で歩くとパリパリに折れて、中の赤い炎が出て来て、足の裏を焦がします。中国ではこれを「走火」と呼び、その名の通り、燃えた薪の上を走り抜けたのだと思います。

 太古の大道芸は、入場料を取りません。見ることは只です。その代りに、お札を売ります。走火を見せてから、火伏のお札(火事や火傷があっても、怪我が最小で済む)、刀の刃渡りを演じた後に、剣伏せのお札を売ったのです。目の前で超能力を見せられた後ですから、お札はよく売れたはずです。

 当時の農村の百姓は、現金は持っていません、何か祭りでもあると、自分の畑で作った、コメ、麦、豆、ゴマ、などを袋に入れて、現金の代わりに持って行き、物で支払います。物の相場はかなり細かく知れていたらしく、芝居でも、大道芸でも普通に麦、豆で支払っていたようです。

 

 時代は下って、明治初年に、天一は、刃渡りの術を得意芸にしていました。天一は、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)と言って、近代日本の西洋奇術のパイオニアです。然し、子供の頃には西洋奇術は見たことがありません。阿波の国(徳島県)の鳴門の渦潮のある近辺の寺で小坊主として修業をしていました。

 何とか人並み超えた技を身につけたいと言う野望を持って、寺を抜け出し、修験者にくっついて、狐降し(狐が憑いて情緒不安定になった人を元に戻してやる)や、剣伏せの技を習います。習った天一は、稽古も修行もせず、年上の女と仲良くなり、高知に渡り、小屋掛けを張って、剣渡り(つるぎわたり)を演じます。

 当時、明治維新直後で、廃刀令が出て、刀は二束三文で道具屋に売られていました。それを10本ほど買って来て、梯子を改良して、脚立のようなものをこしらえ、そこに刀の刃を上にして、10本全て並べます。それを順に素足で登って行き、また下って行きます。無論、足の裏には傷一つありません。

 当時の土佐(高知県)は二重鎖国をしていて、江戸の幕府が外国との交際を断って居た時に、四国の中で、土佐だけは、周囲の国とも交際を断っていたのです。それが明治維新を迎えると、二重鎖国は解け、それに合わせて、他の地域からどっと、商人や、芸人が押し掛けます。お陰で新しいものがいっぺんに入って来て、見るもの何でも大流行で、興行も何を見せても観客が集まりました。

 その機に乗じてやってきた天一の剣渡りは大当たりで、何か月も興行したようです。まだ天一は17歳くらいの時です。全く芸能の修行をしないで、たまたま習い覚えた剣渡りで一躍人気者になり、そこに手下の芸人が付き、たちまち一座ができます。

 高知の大当たりに気を良くして、その後ぐるり四国を回って、相当に稼ぎました。それから大阪に渡ります。大阪で興行したかどうかは分かりません。何しろ素人芸ですし、連れている芸人も三流ばかりです。大阪では通用しなかったのかもしれません。

 大阪は敷居が高いと見たのか、和歌山に行きます。和歌山の小屋掛け興行では剣渡りは大当たりです。するとある日、興行主が、「私は大阪で、火渡りの術と言うのを見てきました。赤々と炭を燃やした上で白い装束の修験者が、呪文を唱えて火の上を歩きます。足の裏は全く火傷のもありません。すごい術です。もしや、先生は、剣渡りをするくらいですから、火渡りもなさいますか」。言われて天一は、確かに修験者から火渡りは聞いていた、然し、やり方は詳しく聞いてはいないし、今までやったことがない。それでも若気の至りで、「できる」。と言ってしまいました。興行主は大喜びで、「火渡りと、剣渡りの二つを一緒に演じたなら、近郷近在から大勢人が押し掛けるでしょう。早速ビラを撒いて、明日にでも興行しましょう」。と、話はどんどん進んで行ってしまいました。

 安請け合いした天一は、内心不安に駆られます。何しろやったことがない術ですから。然し、どんなに熱くても、素早く走り抜けたらそう大したことではないだろう。と高を括っていました。

 翌日、興行主は大きな張り紙を町中に貼って宣伝し、炭俵を10荷も仕入れ、渡り道を作り、炭を並べ。すべての炭を撒いて火をつけました。長さ10mに渡って、大きな炎が上がりました。観客は炎を見て大喜びです。「では先生よろしくお願いします」。と促されて、天一登場。天一自身も、炎の大きさに圧倒され、しばらく躊躇します。念仏を唱えて時間を稼いでいますが、いよいよ逃げられないとわかると、度胸を決めて火の上を走ったのですが、一歩足を入れた途端、とんでもない熱さで、ひっくり返ってしまいました。そのまま気絶して、丸一日宿で寝てしまいます。目を覚ますと、興行主だけが恨めし気に座っていたそうです。三か月宿で寝込み、その間に女房もいなくなり、座員も逃げ出し、財産全てを宿に支払って、ようやく歩けるようになって身一つ、杖をついて和歌山を後にしました。

 

 いかに若いとは言っても、種を知らずに火渡りをするのは無謀です。火渡りは、初めに、渡り道の下に30㎝程の溝を掘ります。溝には水を張ります。その溝の上に、梯子段のように枝を並べ、枝の上に、木っ端の薄い木を敷き詰めます。木っ端に火をつけ、十分燃えた後に、塩とかん水(ラーメンの麺をこねるときに使うつなぎの粉)を撒きます。火の温度が下がるそうです。その上で、火の上を渡るのです。

 火はほとんど消えていますし、炭状になった木っ端も、煙は出ていますが、足を踏み入れた途端に溝の水に落ちますので、煙は上がりますが、熱くはありません。足は、少々炎が残った木っ端を踏んでも、すぐに下の水で冷やしますので熱くはないわけです。

 やはりどんなことにもやり方があり、それを知らずに行えば大怪我をします。天一は、数年間稼いだ金を使い果たし、座員にも、女房にも見放され、足は焼けただれ、以後剣渡りもできなくなります。当人は、和歌山の失敗を後世面白おかしくみんなに話をしましたが、その実、足の火傷を恥ずかしがったようで、生涯足袋を履いていて、素足で外に出ることはなかったそうです。明治5年のこと、天一20歳の時です。

続く