手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 6

 一昨日マジックの小道具を作ろうと、中野の島忠ホームセンターに出かけました。驚いたことに、駐車場のスロープからして既に車が連なっていました。勿論店内は満員です。あちこちの店が閉まって、行き場のない人たちが、ホームセンターに集まっているようです。パチンコ店も大賑わいだと聞いています。これで、感染対策の効果は見込めるのでしょうか。結局人は営業している店に集まり、大繁盛し、自粛している店は困窮するばかり。何か間違っていませんか。

 私は、島忠は自粛すべきとは思いません。大いに商売すべきです。そしてほかの店も自粛する必要はありません。いつもの通り商売なさって結構なのです。そもそもコロナで大騒ぎすることが間違っているのです。

 今、外は雨が降っています。この雨で、湿度が上がれば、ウイルスは感染力が弱まります。雨水で大気中のウイルスは流されます。必ず快方に向かいます。もし、肺の中にウイルスが残っている人があるのなら、窓を開けて、外に向かって大きな声で歌を歌ってください。狭い部屋に閉じこもって息を潜めていてはいけません。思い切り肺の中の空気を捨て去るような気持ちで歌ってみてください。

 

大波小波がやって来る

 昭和58年ごろから、平成4年までは、私の人生で最も仕事が忙しかった時期でした。これはちょうどバブルの時期と重なり、日本中が沸き返っていた時代でした。

 会社の忘年会の福引の一等商品が自動車何てざらな時代でした。勤め人は毎日が残業で、きっちり手当てが付きましたので、残業手当で贅沢な食事をしたり、海外旅行に出かけたりしていました。会社は、儲かりすぎて、税金ですべて取られるのがもったいないと、福利厚生費と言う名目で、社員や、お得意さんに対して頻繁にホテルでパーティーを催していました。我々はそうしたパーティ-に呼ばれてショウをしていました。まだこの時代は地方都市でイリュージションショウをする人が少なかったため、私は月のうち10日近く、関西に出かけていました。私の大道具を運ぶ車はほぼ3日に一回関西と東京を往復していたことになります。

 こうした最中、青天の霹靂の事態に至ります。天皇陛下が倒れられたのです。高齢の天皇陛下は前々から健康がすぐれず、昭和63年の8月に倒れられたときは、危険な状態でした。そしてそれから翌年の1月7日に亡くなられるまで、5か月間、日本中からパーティーの仕事が消えたのです。忙しいさなか、仕事はどんどん中止になってゆきます。

 この時ほど、先々に不安を感じたことはありません。ちょうど今と同じ状況です。

但し今と違う点は、周囲の企業が好景気だったことです。もし天皇陛下が亡くなられたなら、すぐにパーティーの仕事が山ほど来るであろうことは予測が出来たのです。 実際に平成になると今まで以上にパーティーの仕事が来ました。

 

 天皇陛下が倒れられたときに、私はマンションを担保に銀行から借金をしました。500万円はすぐに借りられました。これで半年は何とかしのげます。しかしこの時に、いろいろなことがわかってきました。まず私のマンションは築40年になろうとしていました。この先住み続けると、マンション価値は下がって行きます。売るなら今だと気づきました。更に、1500万円で買ったマンションが、ローンを払い続けて、残額が900万円くらいになっていました。そしてマンション資産価値がバブルのお陰で、4000万円の価値になっていました。ただ住んでいたただけで3000万円以上の価値が付いたのです。

 そうならこれは売る手です。平成になってから、私は不動産物件を見て歩くのが仕事になりました。何とか土地を買って、そこのビルを建ててやろうと考えたのです。私がそんな考えに至ったのも、そもそも27歳の時にマンションを所有できたからです。これは、アパートを借りて暮らすよりも何倍も仕事を有利にしました。

 

 その後、昭和63年に芸術祭賞を受賞しました。平成元年1月に芸術祭賞の授賞式がありました。東京イリュージョンを株式会社にしました。土地を買いました。同時に子供が生まれました。平成2年に高円寺にビルが建ちました。これが私の絶頂期です。

 この先は何もかもがうまく行くと思っていました。ところが、平成5年にバブルが破綻しました。バブルの破綻は既に平成元年に起こっていたのですが誰もが大した問題とは考えていなかったのです。元年以降は仕事も多かったですし、バブルのさなかに会社が新社屋を建てたりして、竣工パーティーなどで仕事の本数は相変わらず多かったのです。地方公共団体は、文化会館や市民会館を建て直して、その都度、私を呼んでくれました。平成4年までは仕事の本数は減らなかったのです。

 しかし、平成5年の正月を過ぎると。仕事はがったり落ちてきました。5月に連休だというのに一本の仕事もかかって来ません。5月6月7月は仕事の依頼ゼロ、本数もわずかでした。ここで初めて危機を感じました。バブルのさ中でしたから、生活の幅を広げていました。毎月毎月会社の資金が足らなくなりました、建てたばかりの家のローンも払えません。まったく万事休すです。それまで付き合いのあった広告代理店に出した年賀状がたくさん帰ってきました。広告代理店は規模を縮小して、芸能部門を〆てしまったのです。あの真面目な社員の方々は一体どうしたのか、この先どこの仕事先を頼ったらいいのか、お先真っ暗でした。

 毎日何をすることもなく、事務所にいると、3階の自宅から娘が下りて来て、「パパ、一緒にシャボン玉をやろうよ」。と言います。別段用事もないので、一緒に4階のベランダに行って、向こうに見える新宿のビル群に向かって、日がな一日、プカーリ、プカーリとシャボン玉を飛ばします。娘は「パパは毎日すみれと遊んでくれるから好きよ」。と言います。私も「パパもすみれと一緒にシャボン玉をするのは楽しいよ」。と答えます。しかし、新宿に向かって飛んでゆくシャボン玉が、途中でパチンとはじける姿を見て。「あぁ、偉そうに突っ張っていたって、自分の人生なんて所詮あのシャボン玉なんだなぁ。こうして娘と一緒にシャボン玉ができるのはいつまでだろう。家も、家庭もイリュージョンチームも、形があって実は形なんてない。あのシャボン玉のように何も残らず、呆気なく消えて行くんだろうなぁ」。と無常観がよぎりました。