手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 7

   安倍首相が、星野源さんの、うちで踊ろうの曲で犬とくつろいでいる姿がネットで批判の対象になりました。おかしな話です。家にいて犬とくつろいでいる人がなぜ批判を浴びなければいけないのでしょうか。この問題に関しては私は安倍首相を擁護します。安倍首相が、知らない女性を膝に乗せていちゃついていたとか、パチンコをしていたというなら苦情も来るでしょうが、おとなしく家で犬と遊んで何がいけないのですか。「こんな事態の時にくつろいでいるのは不謹慎」。とは妙な話です。

 やるべき仕事をした後に、ほんのひと時くつろぐのは人としてとても必要なことです。ましてや一国のリーダーが、事に当たって常に神経をとがらせてぎすぎすしているのはむしろマイナスです。何もせず、無心になって頭の中を空っぽにすることはとても大事です。第三者がとやかく言うことではありません。

 世の中が厳しい環境になると、決まって周囲の人を監視して苦情を言う人が出て来ます。密告社会の始まります。実はそうした人が世の中を暗くします。星野源さんは、そんな暗い社会を明るくしようとして歌を作曲したのでしょう。安倍首相はそれに乗って、犬と戯れたのです。それでいいではないですか。

 

 度々親父の話で失礼しますが、私の親父は芸人で、ギターを使って3人で、替え歌を唄ったり、ジャズを演奏したりしてお客様を喜ばせていました。(お笑いの世界ではこうした三人組のチームをボーイズと言います)。戦争が激しくなると、ギターを持って、慰問に出かけようとする親父を、憲兵や、近所の国防婦人会に属しているおばさん連中が、「非国民だ」、「この非常事態にギター弾いて遊んでいる」。と道端で捕まえては攻め立てたそうです。親父は、自分にとってはこれが仕事だ。と言いたいのですが、言える状況ではありません。大勢の人の囲まれて、まるで怠け者を見るような眼で攻め立てられて。一方的に言葉の暴力を浴びせられました。

 親父が農村慰問に行けば、村はみんな大喜びで、たくさん人が集まります。わずかな入場料ですが、学校の講堂が満杯になるほど入ります。芸人とすればいい収入になります。その上、みんな米や小豆やネギを持ってきて、食べてくれと土産をくれます。帰りには背負いきれないほどの土産を持って帰ってきます。このとき親父は、重い荷物を背負いつつも、自分が人の役に立っているんだとしみじみ実感します。世間が芸能をするものをなぜ否定するのか見当もつきません。芸能がなければ人は日々楽しみもなく、生き甲斐がないではありませんか。

 戦争の不幸は、人の生死のこと限ったものではありません。人を無理解にし、周囲の人を知らず知らずに攻撃して貶めます。人を責めることで、自分の正義を吹聴します。恥ずかしい人たちです。憲兵も、国防婦人会もなくなった今、自由で開放的な世の中になったのかと思いきや、ネットがその役割を果たして、鵜の目鷹の目と人を監視しています。おかしな話です。人が何をしようが大きなお世話なのです。

 

大波小波がやって来る

 平成5年にバブルは終了しました。いくら電話を待っても、大きな仕事は全くかかって来ません。東京イリュージョンと言う看板を出しておきながら、イリュージョンの依頼が来なくなりました。ビルを建てた時に、銀行から6000万円を借りました。毎月のローンが42万円です。全く払えません。従業員の給料も毎月150万円かかります。これまで稼いだお金を取り崩して、支払いましたが、いつまでもつかわかりません。

 私は、毎朝犬と散歩する度に、どこかに金が落ちてはいないかときょろきょろと見回すようになりました。人は金がなくなると、挙動まで卑しくなります。卑しくなった自分に気づいて納得します。実は、ニュースで、大貫さんというトラック運転手が、道端で段ボールに入った1億円を拾ったと言っていました。そうならもう1千万円くらいきっとどこかに落ちているに違いないと思って、毎朝探しました。ありません。

 「このままではチーム解散、会社は倒産、家は処分、離婚もあり得るかなぁ」。と思いました。ところが、ある日、税理士の先生が私に、「藤山さんの会社は倒産しませんよ」。と言います。「なぜです」。「会社に借金がないからです」。「借金はなくても、仕事がないまま、家のローンや社員の給料を払い続けていれば倒産します」。

「いや、仕事はあります」。税理士さんいわく、これまでのスケジュールを見ると、無くなったのはイリュージョンの仕事であって、水芸の仕事は減っていなかったのです。

水芸は私のチームがほぼ独占していましたから、水芸の仕事はバブルがはじけて以降もあったのです。税理士さんによれば「水芸の収入を元にして、従業員の給料や、経費を逆算してゆけばいいのです。そうすれば赤字にはなりません」。

 確かにその通りです。そこで、社員を大幅に減らして、ほとんどを臨時雇いに切り替えて、必要経費を切り詰めたところが、赤字はなくなりました。何とかこれで生きていけるということがわかったのです。この時以来、私はタキシードを着て、イリュージョンショウをすることから、和服を着て手妻をして行く道に切り替えて行ったのです。

 勿論イリュージョンの仕事もやめたわけではありません。徐々に和の演技にシフトしていったのです。和は勿論、若い時からしていましたが、この時を境に、本気になって、和を研究し、より和を和の世界で通用するように作り変えて行こうと決意しました。35歳の時です。

 この決断は今考えても正しかったと思います。そこに私自身もチームも大きく方向転換したことが今日まで私が活芸能の世界で活動して行けた理由なのですから。

 但し、完全に和に移行するには和の財産が少なすぎます。もっともっと和の手順をたくさん持たなければ、仕事として幅広いニーズに応えられないのです。幸い、水芸は大きなギャラを貰えますが、水芸は要らない、別のものが欲しいとなると、私の持つ手順は思い切り貧弱になります。蒸籠(せいろう、小箱の中からハンカチが出て来る)、柱抜き(サムタイともいい、両親指を結んで、マイクや、棒を貫通させる)、と言った小物の作品しかありません。一般のユーザーがパッと目を引いて、使ってみたいと思うような作品がないのです。そこで、随分アレンジやら新作を考えて、手順を作ってはリサイタルで発表して行きました。

 収入が少なくなってからの創作活動は、苦しいことの連続でした。しかし今作らなければ会社も自分自身も将来がありません。このころは夜も昼もないくらいに忙しい日々でした。

続く