手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 5

 困っているときの人の情けは身に沁みます。昨日、ある市民会館から、来年の仕事の依頼がきました。水芸やら、蝶を演じて1時間から2時間。邦楽の演奏家をずらりと揃えて、生演奏で、手妻のフルショウをします。大きな企画です。こんな話が来ると気持ちが晴れ晴れとします。夢を売る仕事をしていながら、キャンセルの電話ばかりだと、自らが作り出す夢や希望に自信が持てなくなって行きます。長くこの道で生きてきたおかげと感謝しています。

 一昨日、夕方に食事をしようと、高円寺の駅前の洋食屋に入りました。私はこの店にはめったに入りません。ただ、表からのぞくと店にお客様がいません。亭主がコックで、奥さんがウエイトレスをしている店です。奥さんはカウンターで頬杖をついてうつむいています。なんとなく気の毒になり、店に入りました。私の顔を見るなり、奥さんはぱっと光が差したような表情になりました。奥から亭主を呼び、早速料理が始まります。幸い私の後にお客様が二組入って来て、店は少し賑やかになりました。

 頼んだ食事はたいしたものではなかったのですが、亭主と、奥さんが生き生きと仕事をしている姿が幸せそうでした。洋食屋も手妻師も同じです。お客様がいなければ元気が出ません。お客様あっての仕事です。

 

 昨晩、玉ひでの社長さんと電話をしていて、玉ひでもお客様が少なくて困っているようです。私の公演は中止することを伝えましたが、社長さんもこの先、どうなるか不安だと言っていました。玉ひでほど名前のあるお店でも先行きが読めないのです。お店が大きいため、従業員も多く、毎月の支払いが相当な金額になるようです。

 コロナウイルスが流行る前までは、お客様は連日1時間待ち、2時間待ちの行列だったのですが、今はほとんど並ばずに食べられるそうです。お客様には幸いな状況ですが、社長にとっては不安です。私は、5月16日の公演は開催します。

 

大波小波がやって来る

 チームを作ってイベント専門に活動するようになると、仕事の数はぐんぐん増えて行きました。折から日本の景気が良くなって、会社のパーティーなども増えて行きました。私のように、イリュージョンや、トークを交えた大きなショウに乗り出したマジシャンはかなり忙しくなりました。逆に、これまでキャバレーで忙しかったスライハンドマジシャンはなかなか仕事がきません。

 スライハンドはそれそのものは内容が詰まっていて見ごたえがありますが、常識的に考えても、7分8分という短い手順で大きな収入を得るということは考えにくいものです。それが何とか生活ができていたのは、ひとえにナイトクラブやキャバレーがあったからです。そうした社交場が無くなってしまうと、もう8分の演技で生きて行くことは無理です。

 もし、ショウビジネスの世界で生きて行きたいと考えるなら、スライハンドだけでなく、イリュージョンから、トークから様々なマジックをこなしてゆかなければ生きては行けないはずです。ところが、スライハンドマジシャンのなかにはかたくなにスライハンドのみで生きて行こうとする人たちがいます。

 彼らはコンベンションと言う、狭い世界の中に活路を見出しました。然しどうでしょう、世界中のコンベンションが一体何人の支持者を相手に活動しているのかと考えたなら、世界の奇術愛好家を集めてもせいぜい5万人程度、10万人とはいないのではないでしょうか。仮に5万人を相手に年間何回舞台に立てるかと考えたなら、実力あるマジシャンですら、年に数回ではないでしょうか。そんな本数で生きて行けるかと考えたなら、不可能でしょう。もうそこはプロの活動する場でないことは明らかなのです。

 現在に至るまで、多くのマジックファンは、コンベンションで優勝して、スライハンドで生きて行こうと考えている人がかなりいますが、現実には、コンテストに優勝した内容で生きて行くことは不可能です。マジックで生きるということは、たくさんの知識と、たくさんの演技がなければ無理です。

 私は、20代の半ばに、コンベンションにたびたびゲスト出演をしました。そして、世界中のマジック愛好家の数がおよそどれくらいのものなのかを知りました。その上でどうやって生きて行くかと考えた時に、コンベンションの中では生きては行けないことを知りました。

 コンベンションの中で生きようと思ったなら、毎回ゲスト出演することは不可能なのです。結局、愛好家を相手に小道具の販売をしない限り生きては行けないのです。夢ふくらませてプロマジシャンを目指しても、コンベンションにたむろしている限りは結局道具を販売することになってしまいます。それ故に、ある時期からコンベンションに行くことをやめました。しっかりマジックで稼いで、その稼ぎで、ゆとりを持ってコンベンションに遊びで参加できるような身分になりたい。そう思ってその後は舞台に専念しました。

 

 その後も日本の景気は上向きになり、いよいよバブル景気を迎えることになります。バブル景気とはよく聞く言葉ですが、一体何がバブルなのか、少しお話ししますと、日本の企業が好景気を迎えると、日本にお金が集まってきます。銀行にもたくさん資金が集まります。銀行は、それを企業に貸したいと考えます。しかし、景気が良いため、企業は自前で事業拡大ができます。そうなると銀行の用事がありません。

 やむなく銀行は個人に貸し出しをするようになります。昭和60年以降になると、銀行の貸付係が、個人の家にまで来て、金を貸しましょうと言ってくるようになります。つい数年前までは銀行は個人を相手にしなかったのに、えらい変わりようです。

 例えば個人商店に、店の敷地を担保にして、店をビルにして、上をアパートにして貸します。ビルの費用はアパートの賃収入を充てて、やがては老後の資金にしてはどうかと銀行が持ち掛けます。

 企業は企業で、事業を拡大すると、東京に事務所になるようなビルが不足してきます。そこで土地を買い取り、ビルを建てて、オフィスビルを持つ企業が現れます。

 やがて、東京にビルを建てる土地が不足するようになります。そこで地上げ屋と称する不動産屋が現れます。地上げ屋とは、小さな家の立っている一帯を次々買収して、まとまった大きな土地を作って、一括してオフィスビルを建てる建設会社に売るのです。地上げ屋はとんでもない金で、わずかな敷地の個人の土地を買い取ります。小さな土地もまとめて大きな土地になると、思い切り高いビルを建てることができます。そうなるといくら地上げに費用が掛かっても、十分元が取れるだけの容積率のあるビルが建てられます。結果、東京の土地は瞬く間に高騰し、半年前の土地の値段が一気に3倍に跳ね上がったりしました。物価は毎年10%値上げしました。

 こうしてできた、オフィスや、マンションを投資のために個人や企業が買いまくったものですから、物の値段は急上昇します。銀行はやみくもに金を貸し、儲けたいと思う人は、やみくもに土地や、ビルを買います。みんなが不動産を買い求めますから。不動産は、実態を超えてとんでもなく値上がりします。これがバブルです。

 昭和60年代から始まって、平成4年くらいまで、この状況が続きます。この時代に生きていた人は、永久に土地が上がり続けて、物価は必ず10%上がると思い込んでいました。それがある日、呆気なくはじけてしまいます。

続く