手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

人の輪を作る

 仕事柄、お笑いの若手と飲むこともあれば、マジシャンの若手と飲むこともあります。酒に限らず、例えば、楽屋に5人くらい人がいて、そこで何か世間話しをすると言う時に、いったいどんな話をしたら人が喜ぶのか、人を楽しませると言うことはどういうことなのか。私はいろいろ頭を巡らします。

 お笑いの連中はこうした場で自分をアピールすることに長けています。自分の失敗談ネタをたくさん持っていて、次々くだらない話をして人を喜ばせます。私は、舞台の表芸以外の話をたくさん持っているお笑い芸人は、きっと司会に使ったら面白いだろう。と思います。そこで、彼らにマジックショウの司会の話を紹介したりします。仕事と言うのはこんな風にして決まって行きます。

 

 しかし、しかしです。マジシャンの若手は、こうした場所で、全く人を楽しませようとは考えもしないのです。食事や、酒をご馳走するためにレストランなどに連れて行っても、ただ一人黙々と食事をするだけで、私の話の相槌を打つわけでもなければ、自分から面白い話を提供するわけでもありません。5人6人と言う仲間の輪の中にいても、彼らは仲間としての役割を果たそうともしないのです。

 私が見るに見かねて「ねぇ、君だって,こんなことよくあるよねぇ」。と、せっかく話を向けても、「えぇ」とか、「いや、別に」、とか、気の抜けた返事をするだけで、この話を膨らませてやろうとか、ここで人を喜ばせてやろうとか、この輪の中心になって、話題を集めてやろうとは思わないのです。私が話を向けても、面倒くさそうに生返事をするだけで、一人黙々と食事をしているです。こんな時、私は、なぜ彼に食事を誘ったのか、なぜ酒をご馳走したのか、悔やむ結果になります。

 彼らが、全くの素人ならそれも許されます。しかし、いやしくも、マジシャンの端くれに存在するものなら、今この場がどういう場なのかをまず読まなければいけないし、

仮に、ここの場が、芸人のたまり場ではなくて、クライアントの集まる場であったなら、何か気の利いたことを言って、仕事先の人たちを喜ばせ、彼らを仲間に取り込まなければならないはずです。そうした話が出来なければ、まとまる話もまとまらなくなってしまいます。

 仕事がもらえると言うことは、マジックができるかどうかということとは別次元の話なのです。ある企画会議に呼ばれて、そこで、私のマジックが企画に生かせるかどうか、質問を受けた際に、ただ、出来る出来ないを言っても意味がないのです。

 そうではないのです。そこにいる、企画担当者を自分の仲間にする努力をしなければなりません。そこでいろいろ面白い話を提供します。話している中から、企画者がすっかり打ち解けて来て、心の中で、「なんとか、このマジシャンを使ってやろう」。と心に決めたなら、大きなチャンスを手に入れたことになります。

 

 多くの場合、マジシャンは、こんな時にマジックを見せようとします。無論それは効果的です。不思議が成功したときには、きっと企画担当者は喜ぶでしょう。しかし、私はあえてマジックは演じません。マジックの不思議を訴えるのではなく、私自身の人間的な面白さを訴えます。そうすることで、「あぁ、この人をパーティーに招けば、きっとみんな喜ぶ」。とか、「この人は知性的な話し方をする。きっと経営者たちは喜ぶ」。などと判断します。その結果、彼らが心の内で、「この人を使えばこの企画は成功する」。と判断を立てるのです。

 私がなぜそこでマジックを見せないのか、それは、私のマジシャンとしての良し悪しを判断する場合、常にマジックを演じて見せると言うことが、必ずしも大きな成功にはつながらないからです。

 良く考えてみてください。歌舞伎俳優を司会者に使うようなときに、歌舞伎俳優は、いちいち芝居をして見せますか、羽生ゆずるさんをゲストに招くときに、羽生さんはいちいち呼ばれてスケートを滑って見せますか。ゆずをゲストに招くときに、企画室で、ゆずはギターをもって歌を歌いますか。しません。表芸は決して演じないのです。

 表芸をいちいちやって見せなければならないと言うのは、三流のあかしなのです。3万円、5万円と言うわずかなギャラを得るためならそれも効果があるでしょう。しかしもっと大きく稼ぎたいと思うなら、部分的なマジックの不思議さなどと言うものはあまり意味がありません。その人そのものが面白くなければ、仕事は来ないのです。

 

 その人が面白いかどうか、どんな時に面白さを磨くのか、と言えば、仲間と飲みに行ったとき、あるいは先輩に連れられて食事に行ったとき、そんな時こそ先輩の胸を借りて、面白い話を作るチャンスなのです。先輩が、取るに足らないような、ありふれた話をいかに面白くして聞かせているのか、勉強するチャンスなのです。今この場が修行の場だと気づかない人は、永久に修行に気づきません。

 せっかく先輩に呼ばれて、食事に連れて行ってもらっても、仲間の輪に入れなかったり、始めから輪の中に入ろうともせず、気のない返事をしていたら、二度と呼ばれることはないでしょう。そもそも、こんな人は自分が芸人であることの意識がないのです。人を楽しませると言うことが自分の仕事であると言うことに気づいていないのです。 

 当人は、マジックをいくつか知っていて、演じられるから、自称マジシャンと思い込んでいますが、あくまでそれは自称に過ぎません。傍から見たなら、マジシャンの入り口にも立っていないのです。こんな人は結局2,3年もするとマジックの世界から消えて行きます。マジック界に残っていたとしても、誰からも相手にされないのです。初めから芸人ではないのですから。

 

 人生にチャンスはいくらも転がっています。ただ自分が気付かないだけです。習う時に習わず、学ぶときに学ばず、人のために働かなければならないときに、自分のしたいことをしているから誰にも相手にされないのです。

 本来自分が学ばなければならないときに人に物を教えようとしたり、舞台に集中しなければならないときに、他の仕事をしていたり、せっかくいいアイディアを考えても、それを道具にして販売してしまったり、間違ったことばかりをしているから、いつしかマジック界の中心から外れて行ってしまうのです。

 どうぞ、食事をするとき、酒を飲むとき、思いっきりくだらない話をためておいてください。一般社会ではそれは失敗談に過ぎません。しかし芸能の世界では失敗談こそ、黄金に変わる錬金術なのです。