手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

理想のマジシャン 2

理想のマジシャン 2

 

 昨日に続き、コンテストの主催者が優勝者を求める際に、主催者はどんなマジシャンを求めているのか。何と何ができたら優勝なのか。この点が日本は曖昧なままコンテストを繰り返していると思います。

 私がコンベンション主催者に、「どんなマジシャンなら優勝なのですか?」と、問うと、「巧いマジシャンなら優勝です」。「なるほど、何が巧いマジシャンですか?」。「カードやボールがうまく扱えるマジシャン」。「なるほど、そのマジシャンが一般の芸能活動で食べて行けますか?」。「巧ければ生きて行けるでしょう」。「なるほど、そうならなぜマーカ・テンドーは仕事がなくて苦しんだのですか?。なぜルーカスは、舞台をせずに指導で生きて行かなければならないのですか?」。「・・・」。「結果においてコンテストは食えないマジシャンを育てていませんか?」。「・・・」。

 「それは結果として、コンテストはマジック愛好家の好むマジシャンを表彰しているのであって、一般観客の求めるマジシャンを生み出してはいないのではありませんか?」。

 私は、弟子がコンベンションに行って、コンテストに出ることをあまり良いことだと思ってはいません。だからと言って、あからさまに反対はしません。それは、この道で生きて行くような人なら、少なからずコンベンションの影響を受け、コンテストに並々ならぬ興味を抱いていることが良くわかるからです。

 然し、コンテストでどうにかなっても、それは、マジック仲間の狭い世界の評価を手に入れただけであり、それで生きて行くことなどまず不可能だと言うことを知っていなければいけません。

 「僕はそうした狭い世界で生きて行くことが幸せなんです」。と言う人には何も言いません。アマチュアならそれでも結構です。但し、現実に、プロで生活して行くことは、日々生活に追われます。今日も仕事がない、明日も仕事がない、と言う生活を3年も4年も続けていて、それでマジシャンとしてどうにかなって行くのでしょうか。

 

 こんな風に書くと、「藤山はスライハンドが嫌いなんだ、クロースアップが嫌いなんだ」。と、私個人を非難する人がいます。どんな人がいても結構ですが、但し、私自身も実際20代のころは、スライハンドで生きて来たのです。嫌いなわけではありません。人一倍理解力もあります。

 但し、今のスライハンドの演者を見ていると、昔よりも一層、自分に都合の良い舞台条件を設定して、自分の世界を作ろうとしています。コンベンション主催者は、そうした彼らの意見を尊重して、少しでもいい条件の舞台づくりをしようと涙ぐましい努力をします。そうした結果に生まれた演技が、実際に外に出て、一般のステージで生かせるものかどうか。

 生かせないとしたなら、なぜ、理解者を相手とした不思議の追求ばかりするのでなく、もっと角度の広い、明るい照明を使って、どんな条件でも出来るようなマジックを作ろうとしないのでしょうか。

 私はかつてマーカ・テンドーに話したことがあります。「カードマニュピレーションは実際のイベントでは、横にお客様がいたりして、種がばれてしまうから出来ないのは分かるけど、だからと言って、全くメイン手順をやめてしまうのではなくて、部分部分を安全な手順に差し替えるなどして、工夫をしたほうがいいのではないか。それが君にとって100%満足の行かない演技だとしても、50%60%でも自分を表現できたならそれで良しとすべきじゃぁないか。今の君のやり方では、自分を生かしていないだろう」。

 言われてテンドーは頷いていましたが、彼は元々器用な男ではないのでしょう。どうしたら自分のやりたい演技を一般の観客に伝えることができるのか。と言う、プロとして根本的な生き方について、最後まで答えを出すことができず、結果として、自分の理解者を探して、どんどん数が少なくなって行く世界大会の中で、理解者に評価を求めるしかなかったのです。

 表芸に妥協を見出したくはない。それはそれで立派な考え方です。だからと言って、指導に走ったり、道具の販売をして生きて行くことが本当に自分のしたい道なのか。と言えば、それも間違いでしょう。結局彼は間違いと知りつつも、コンベンションを頼り、理解者を求め、自分の演技に答えを出せずに追い込まれていったのです。

 

 それがマーカ・テンドー一人の問題なら致し方ありません。然し、毎年毎年コンテストを開催して、優勝者を出していながら、世界中のマジック団体は、どうしたらいいプロが育つのか、どんなマジックをしたらいいのか、という回答を先延ばしするのでしょうか。

 アマチュアを集めて、やりたいことをやりたいようにやらせて、それでいざプロとなったら、いや、プロにならなくても、アマチュアがボランティア活動をしたり、友人のパーティーなどに頼まれて出演した結果、タネがぼろ見えして、友人から醒めた評価しか得られなかったら、かつてコンテストで入賞したアマチュアのプライドは大いに傷つくでしょう。

 なにがいけないのでしょう。それは、コンテストで評価された時に、「この手順は、一般客を相手にするには無理があります。一般客に受け入れられる手順はもう一つ上のランクの芸能を理解して、演技を作らなければ無理です」。と明確に伝えるべきなのです。今、世界中で開催されているマジックコンテストを繰り返す限り、一般客をマジックに引き込むマジシャンはなかなか現れそうもありません。

 無論、現代でも有能なマジシャンはいます。その人たちに、種仕掛けでない別の価値観があることを伝えれば、確実に芸能として優れたマジシャンは育って行きます。然し、今のマジック界の考え方は、一層頑(かたく)ななアマチュアイズムを持ち上げ続けています。

 今のコンテストの入賞者は、余りに自分寄りの考え方で手順つくりをしています。これではマジックを見せる場がなかなか出来ないでしょう。見せる機会がなければ見たいと思う一般客が増えないのは当然で、一般客が増えなければアマチュア人口が増えないのはこれまた当然なのです。

続く