手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

一門新年会

一門新年会

 

 毎年1月4日に縁のある人が集まって、私の家の一階のアトリエで新年会を開いています。かつては近所に広い事務所を借りていて、そこで新年会を開いていました。多いときには50人近くが集まりました。

 その頃は昼から深夜までひっきりなしに来客が来て、その都度乾杯をしていたものですから、一日に飲むアルコールの量はとてつもなく、翌朝はくたびれて目が明かないくらいでした。でも人が訪ねて来ると言うことは楽しいものです。

 料理と酒を用意して、足らないときにはたこ焼きを作ったり、うどんを煮込んだり、寿司を注文したりして歓待しました。

 夜7時過ぎになると、お笑い芸人が集まって来ました。当時ナイツもねづっちもまだ売れていませんでした。

 然し、今ではそこの事務所を引き払ってしまいまして、自宅一階のアトリエに拠点を移しました。そこは8人も入ればいっぱいになってしまう部屋ですので、それほど人を集められません。でも細々と新年会を続けて来ました。

 新年会の存続が怪しくなったのはコロナからです。余りお客様に声をかけることも出来なくなり、弟子と気心の知れた人だけで続けていました。それが、お客様に声をかけ始めたのが昨年の正月からです。でも、部屋が狭すぎて、身動きが取れません。「あぁ、昔のような盛大な新年会はもう無理だなぁ」。と諦めました。

 それでも、今年も新年会をする予定でいましたが、元旦二日の地震と事故があったため、そうそう大っぴらに人に声掛けも出来ず、新年会の噂を流すのもやめました。

 大樹と大成は30日の大掃除に来てくれましたので、この二人と朗磨は寿司でもご馳走しようと思い、一昨日4日は、寿司屋に行くように段取りをしていました。

 大樹は1時にやって来て、朗磨と三人で桃太郎寿司に行きました。いろいろ話をしているうちに、2時になって大成が遅れてやって来ました。30日に顔を合わせているメンバーですから、新しい話題もなく、ただ何となく世間話をしていると、石井裕から電話が来ました。「新年会が消えてしまったようなのでどうしたのか」。と電話をしてきたのです。

 「能登地震と羽田の飛行機事故があったから、おおっぴらには祝いもしにくくてさ、連絡しなかったんだよ。時間があるなたおいでよ」。と言うと、バイクに乗ってすぐに来ると言います。随分まめな男です。20分してやって来ました。少しずつ寿司屋のテーブルが賑やかになりました。

 寿司屋で3時間ほど、飲んで、話をして、みんなと別れました。家に帰って、二階の事務所で、ネットを見ていると、帰ったはずの石井がやって来ました。聞くと大樹や大成と喫茶店で話をしていたそうです。「あぁ、彼も一門の連中と話がしたかったんだな」。何とも人懐っこい男です。

 そうならちゃんと新年会に声をかけるべきだったと反省をしました。そこへ和田奈月がやって来ました。奈月はこの日はパーティーの仕事の帰り道だそうです。顏が少し濃い化粧をしています。こんな顔の客が来るのも、いかにも芸人の正月です。

 奈月も新年会の話が消えてしまって一体何があったのかと心配してやって来たのです。石井と奈月が揃っていろいろマジックの話になりました。そこへ和子が下りて来て、4人でお茶を飲みながら世間話が始まりました。

 和子はめったにマジシャンの仲間の話に加わりません。マジシャンの話は話題が狭くて面白くないのです。石井と奈月との話なら楽しいらしく、お菓子とお茶で結構長い時間話をしていました。

 このメンバーで話をしていると、この高円寺の家ができて間もないころの、もう30年も前の記憶がよみがえって来ます。あの頃は仕事も忙しく、チームの人数も多かったので、この狭い事務所にいつでも5,6人の人がいたのです。そこへ訪ねてくる人もたくさんいて、事務所はいつも賑やかでした。

 奈月も、石井もその頃は全く手妻に興味がなく、自ら手妻をすることなどなかったのですが、今ではともに手妻のレパートリーを持って活動しています。奈月などは、奇術協会の公演で水芸の太夫までしています。

 私のアシスタントで入社して来たころは、ピエロの格好をして、風船を膨らませていたのです。今ではすっかり和の世界の人になってしまいました。時代が過ぎれば人の考えも変わるのです。石井も私の元で弟子修行をしていたにもかかわらず、弟子をやめてからはずっとクロースアップをしていたものが、この数年は手妻を演じています。日本舞踊を一年前に始め、熱心に通っているそうです。

 「君がそんなに和が好きだったとは思わなかったよ。そうならもっと早くに日舞をやっておけばよかったね」。と言うと、「でもあの頃は全く興味がなかったんですよ。先生のところから離れて、手妻の大切さに気が付いたんです」。「何にしても、やり始めたのならとことんやり込んだらいいよ。和は年を取ってもずっとできる芸だからね」。

 こうしてある程度年を取った門弟を見ていると、人の縁は不思議なものだと思います。ある時期一緒に舞台活動をしていて、その後は縁が薄くなったり、また接近してきたり、くっついたり離れたりしているうちに互いに年を取って行きます。何ら強制するものではないのに、話がしたくてやって来ます。

 私は、彼らの話を聞きながら、奈月も石井もうまく仕事が来て、生きて行けるのならいいが、と心配になります。何だったらこの先の仕事を廻そうか、などと、余計なことを考えてしまいます。然し、心配するには及びません。彼らももう50を過ぎています。もう立派な中堅マジシャンなのです。私が心配することではありません。

 こうして一日、一門が集まって話をしました。これはこれで楽しい一日でした。別段どこに行くこともない正月でしたが、のんびり楽しく過ごせました。

続く