手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

をどり忘れる

 雀百まで踊り忘れず。という諺がありますが、これは良い意味と悪い意味の両方があるようです。悪いことを身につけると、いくつになっても治らない。という意味で、競馬場通いがやまらない人などに「あいつは全く、雀百まで踊りを忘れずで、博打はやまないなぁ」。と、言う意味で使う言葉。逆に、子供のころから芸を身につけておくと、言われなくてもひとりでに芸が出て来ると言った意味で使う言葉。芸能に生きる身としては後者の使い方のほうがいいのは当たり前です。

 

 さて昨日は、私は藤間章吾先生の会に出て日本舞踊を踊りました。作品は「旅奴(たびやっこ)」大名j家につかえる私設の飛脚のことのようです。火急の用事で走って手紙を届ける役です。こう書くと生真面目な侍を連想しますが、初めから一杯飲んで、景気をつけて、出てきます。時々ふらつきながら、いい女とイチャイチャしたことを思い出したり、機嫌よく唄を唄ったり、そうした内に、飛脚の手紙を道端に置き忘れたりと、大した侍ではありません。それを踊りで見せるわけです。至って軽い、江戸情緒あふれる踊りです。この一曲を半年かけて稽古をしました。

 しかし、どうも私は、忘れっぽくなりまして、本番でも三か所忘れてしまいました。私はとにかく、忘れてもその場で振りを作って、流れを止めないようにします。それが良いことか悪いことかは知りませんが、芸人として何かをしなければいけないと言う、責任感からそうしています。そこを藤間のお師匠さんは面白がります。「藤山さんは、とにかくつなげてしまうから面白い」。と言うのです。

 私としても、もし忘れたらとにかく作ってしまおうと言う気持ちで舞台に挑みました。ところがです。せっかく衣装を着けてスタンバイをしていると、腹具合がよくありません。実は朝から下痢が続いています。一週間前から扁桃腺が腫れて、なかなか治らないので病院に行くと、抗生物質をくれました。それを飲んでいたら、二日目には治りました。良かったと思っていると、今度は下痢が始まりました。これも抗生物質を飲んでいるうちに直るかと思っていましたが、なかなか治りません。

 そもまま踊りの発表会です。旅奴は振りが多く、飛んだり跳ねたりします。途中で下痢になったら困るなぁ。と思っていると、出番の間際に腹具合が悪くなりました。どうしよう。我慢しようか、それともトイレに行くか、迷っていましたが、腹具合は良くありません。ここは思い切って、衣装を全部脱いで、トイレに直行しました。そして、着付け師に再度着付けのし直しをしてもらい、ようやく仕上がると、前の演者がちょうど終わったところでした。

 「あぁ、間に合った」。と安心して舞台脇につき、さて奴になってすたこら出てこようとしたのですが、いつまた腹具合が悪くなるかもしれず、心配が先立ちました。そう思った瞬間、振りがみんなすっ飛んでしまいました。「まずい」。どうして自分だけこんなことになるのでしょうか。他の出演者は、大金をかけて、ぜいたくな歌舞伎衣装を着て、日本舞踊の発表会に挑んでいるのに、私だけ腹具合の心配をしながら舞台に上がるとは何の因果でしょう。演技の途中で飛脚の手紙を持ったままトイレに直行する可能性すらあります。そうなったら困るなぁと思い、それでも、自然自然と振りが出てきましたから、まぁよかったと思い踊りを続けました。

 踊りの3分くらいのところで下痢の心配をした瞬間、頭が空白になりました。ふと上手を見ると、舞台の袖で章吾先生が私に見えるように真剣に踊って見せてくれています。それを見てすぐに手がつながりました。5分目にまた、振りが飛んでしまいました。何気に上手を見ると、やはり章吾先生が踊っています。それを見て思い出し、踊りは続きました。

 7分目でまたわからなくなったので、ここはもう自分で何とかしようと、創作を始めようとしたときに、ふと章吾先生を見ると、その真剣に踊るまなざしが何とも気迫があって、これは決していい加減に踊ってはいけないなぁと思いました。そこで何とかつなげてお終いまで行きましたが、舞台脇で私以上に真剣に踊って見せてくれている章吾先生の生真面目さと、いつ下痢が始まるかもしれないという緊張感。そして振りの度忘れ。いろいろなことがないまぜとなり、何とも不思議な体験でした。

 

 ところで、古い本には、踊りは「をどり」と表記されています。「を」は、「うぉ」と読みます。下唇を前歯の裏に充てて、wの発音をしながら「うぉ」と言います。そうなら、発音は、「うぉどり」と言っていたことになります。昔の日本では、をの字は随分頻繁に使われていたようです。女と言う言葉も、仮名では「をんな」と書いています。愛知県のことを尾張と言いましたが、それも仮名では「をはり」です。読みは恐らく「うぉふぁり」と言っていたと思います。わずか百六十年くらい前でも日本人の発音は今とはかなり違っていたようです。尾の字を「を」と言っていたのなら、犬の尾っぽも、江戸時代の人は、「うぉっぽ」と呼んでいたはずです。

 京都へ行くと、今も、祇園を「ぎをん」と書きます。祇園の園は「えん」ではなく、「うぉん」なのです。韓国の通貨の単位「ウォン」は漢字で表記すると「園」と書きます。「えん」を「うぉん」と書くのはそのままアジアの共通語だったのでしょう

 但し、日本語が徐々に本来の発音から離れて行くことが心配です。私の流派では「を」の字は必ず「うぉ」と発音させていますし、「下へと抜ける」。の「へ」の発音は「え」ではなく、「いぇ」と言わせています。「下いぇと抜ける」。となります。こんなところに気を遣うことで少しでも古い時代の雰囲気が維持されればよいと考えているのです。

 

 さて昨日は、踊りの後に如水会館に行き、叙勲記念のパーティーに出演しました。仕事は勿論パーティーに出演して、蝶を飛ばすことがメインです。昼に踊りが踊れるのも、夜に舞台の仕事があるからこそできることです。百数十人のお客様を前に、いつもの通り、引き出しをして、サムタイをして、おわんと玉をして、蝶を飛ばしました。

 これらの芸を一つ一つお客様が喜んでみてくれるからこそ、私や私の家族や弟子が生きて行けるわけです。こんな人生を送れることは幸せです。